ヴェノムはなぜかわいいのか

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ヴェノムの感想まとめ。

 


ヴェノムって意外とかわいいよね、という小学生レベルの感想文で終わらせる気はありません。

問題は、なぜヴェノムはかわいいのか、可愛く「なってしまったのか」です。

そのあたりをしっかり分析しました。

補助線は、グローバル化と、ウルトラマンと怪獣と四方田犬彦の「かわいい」論あたりを参考にさせて頂きました。

 


■正義と悪の二分が成立しない時代

ハリウッドお得意の、正義が悪を倒すという図式は、ダークナイト以降成立しなくなりました。

アメリカという正義の執行自体が悪であるという見方が出来てしまうからというポスト構造主義の問題もそうですし、ハリウッド映画は膨大な予算がかかるため、70億人つまり全人類をターゲットに勝負しないと回収できないので、アメリカだけが正義というお話ではマーケット的に売れず、悪を設定しづらいという商業的要請からの制約もあるからです。

 


■悪の再設定

そんなわけで、以前とは違う、新しい悪を設定する必要が出ました。

そこで本作のアイデアが、「悪は狂暴に見えてかわいい」「悪は自分の中にある」という設定。

悪は外に置いてしまうと誰かを批判することになり、炎上してしまう。

だから、悪は自分の中にあり、それとうまく付き合いながら飼いならす時代なのだ、という設定にせざるを得ないのです。

余談ですが、敵を心の中のものに設定するのはウルトラマンAで開発されて以降頻繁に使われる手法です。

この時は、政治で世界を変えるというフロンティア精神が敗北し、内面の時代に入っていったことでその外ではなく内に敵を設定する手法が開発されました。

 


一方、悪は凶暴に見えてかわいい、というのは、ウルトラマンに出てくる怪獣がそうでしょう。

なぜなのかは、四方田犬彦の「かわいい」論にあるように、かわいいとは、グロテスクさと紙一重にあるからです。

なぜかというと、これは仮説ですが、かわいいというのは、その対象物を支配下にできている状態を指します。

かわいいは可哀想が起源なので、上から目線で支配している状態から支配主が言う言葉です。

対して凶暴性というのは、支配下に出来ていない、得体の知れない状態のことを指します。

ヴェノムが凶暴なのに可愛いのは、最初は得体の知れない支配下に置けないものを、徐々に飼いならしていく過程で分かり合えていくからなのです。

 


■悪の正体

では、そのヴェノム(悪)の正体は何なのか。

結論から言うと、過去のハリウッド映画自身です。

ヒントは、暴力性と男性性の失墜です。

 


ヴェノムは暴力を好みます。

これは、映画のシーンを見るとわかるのですが、まるで昔の(90年代までの)ハリウッドアクションそのものです。

ヴェノムは、ハリウッドアクションをオマージュしているのです。

なぜかというと、ハリウッドアクションという、男性暴力主義自体を悪と設定し、強さ(暴力)こそが正義というハリウッド映画を批判することがテーマだからです。

 


そして男性性の失墜。

主人公もヴェノムも弱さを見せるシーンがあります。

これは、ハリウッド映画の主人公は決して弱さを見せてはいけない、という設定に対するアンチテーゼです。

そもそもGIジョー的な、肉体も精神も強くあれという男性像へのアンチテーゼとしてスパイダーマンが描かれ、スパイダーマンのスピンオフなのでその設定になるのは必然ですが。

 


ということで、ヴェノムがかわいいのは、悪の再設定の必要性というマーケット上の要請と、その一つのソリューションとしてのハリウッド映画批判が理由となります。

 


ハリウッド映画史上最も残虐な悪とは、ハリウッド映画を批判しなければならない状況への残酷さ、過去ハリウッド映画がしてきた描写の残虐さそのものなのです。

ドラゴンボール超 ブロリーの感想

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ドラゴンボール超 ブロリーを鑑賞。


完全に大人向けでしたね。

これまでの劇場版ドラゴンボールの中で最高傑作でした。

タイトルが英語で凝っていましたし、タイトルが出るまでのスピンオフの演出から涙が止まりませんでした。

 


色々論じたいのですが、特に今回取り上げたいのは、親子論、パラレルワールドブロリーの戦闘力、主題歌、敵の不在問題、FPSについてです。

その中でも、ブロリーがなぜスーパーサイヤ人スーパーサイヤ人ゴッドと互角に戦えるようになるのか、一見単なるご都合主義に見えますが、ちゃんと鳥山明の理屈が入っているというところを論じたいと思います。

 


劇場版観た人向けに論じたいので、あらすじ説明は省略、ネタバレ有りとなっております。ご注意下さい。

 


※ネタバレ全開です※

 


■親子論

わりとわかりやすいベタなテーマとして、親子論(家族論)がありました。

どんな親に育てられると、どんな子供になるのか。

面白いのが、優秀な親だから優秀な子供になるとは限らないところです。

ベジータ王は自分の息子より強いブロリーに嫉妬する最低な親ですが、息子のベジータは地球で育つことで家族思いの愛妻家に変貌しましたし、バーダックサイヤ人らしからぬ息子思いで、惑星ベジータから逃がしましたが、息子のカカロットはセルゲームで平気で息子の悟飯をセルに差し出すような、あまり息子思いな父ではありません。

パラガスは息子のブロリーの戦闘力を利用する最低の親ですが、ブロリーはいい奴です。

面白いのが、フリーザの父コルド大王は、さっさと引退し息子に実権を譲る良い父親だったことです。

それぞれのキャラの親と子の関係性が面白いです。

人間は生まれよりも育った環境が大事(だから自分の運命は自分で切り開け)という思想です。

 


パラレルワールド

今回、キャラ設定が今までの劇場版で出てきたものと違うことがあります。

これは全て、パラレルワールドだということを表しています。

そもそも劇場版自体がパラレルワールドという設定ですし、今回ブロリーが人間味のあるいい奴で父親思いなのも、これはこういう別のあり得た世界があるということです。

小ネタとして、初代ブロリーベジータを岩盤に叩きつけめりこませるシーンがありますが、今回はフリーザがされていること、逆にブロリーゴジータにやられ返されているのがオマージュとして面白いです。

ピッコロが助けるタイミングも、前回はそこまで戦力の差を感じないと思っていたのですぐに助けに行きましたが、今回は圧倒的な戦力の差があるので、逆に邪魔になるくらいなら行かない選択肢を選ぶのもパラレルワールドっぽさが出ています。

 


ブロリーの戦闘力

では本題の、ブロリーの戦闘力について。

ブロリーベジータと闘っていくうちに学習して戦闘力が上がっていきます。

ベジータスーパーサイヤ人になってもスーパーサイヤ人ゴッドになっても追いついていきます。

スーパーサイヤ人2や3の変身を飛ばしているのは、フリーザの部下が、伝説のスーパーサイヤ人スーパーサイヤ人ゴッドなんていませんでした、というフラグを序盤で立て、それを回収しているからですが、なぜあれだけ頑張って変身できたスーパーサイヤ人やゴッドの戦闘力にいとも簡単にブロリーは追いつけたのか。

一見、強い敵でも修行すれば簡単に追いつくご都合主義のようにも思えます。

が、今作は脚本から鳥山明さんご本人が関与していますし、鳥山明さんはめちゃくちゃ理屈っぽい人なので、彼なりのロジックがあるのです。

 


なぜ、ブロリーはあんなに強いのか。

鍵は、大猿化です。

ブロリーは、大猿の力を体内に取り込んで闘えるという設定になっています。

大猿の力がどれほどのものかは明示されていませんが、大猿の力があれば、スーパーサイヤ人ゴッドまでの戦闘力に訓練次第で対抗できるというロジックは確かに成立すると思います。

 


そして、スーパーサイヤ人ブルーに変身した悟空にさすがのブロリーも敗北するかと思われた瞬間、パラガスの死によってスーパーサイヤ人に目覚めます。

その結果、スーパーサイヤ人ブルーでさえも手に負えない強さになります。

 


ここではっきりわかりました。

大猿化した状態でのスーパーサイヤ人

ドラゴンボール公式見解で明示されていますが、この大猿化+スーパーサイヤ人は、スーパーサイヤ人4の変身条件なのです。

つまり、スーパーサイヤ人ブルーは、スーパーサイヤ人4より弱いのです。

これは、時系列的にも、ドラゴンボール超→GTなので、ブルー→4の強さのヒエラルキーは正しいです。

大猿の力を取り込んだブロリーと、取り込んでいない悟空、ベジータの差が、この一見デタラメな戦闘力の急激な追いつき・追い越しを可能にしたのです。

 


■主題歌

三浦大知のブリザードという主題歌、カッコよかったです。

歌詞も、本作の意図が表現されています。

細かい分析は省略しますが、要は運命を変えるのは自分の力であり、このストーリーは続いていく(続編がある)ということです。

 


■敵の不在問題

今回、はっきり言って敵はいませんでした。

敵はブロリーのようにも思いましたが、彼はいい奴として描写されていましたし、最終的には倒されずに終わりました。

これは、現代において敵の設定が困難になってきていることの証左だと思うのです。

悪い奴でも分かり合えれば良い奴になる、ポスト構造主義において真の敵は不在になるのです。

ヴェノムという映画も同じ問題を抱えていたから敵なのに憎めないキャラになっていたのだと思います。

敵なき時代における敵の設定条件は、今回のように、理性の喪失しかないのです。

理性を失って分かり合えない存在になった時にしか敵にできないのです。

ブロリーが育った環境が野生であることを強調していたのもそのためです。

 


FPS

本作は、闘いを第三者視点で眺めているだけでなく、あたかも自分が闘っているかのような第一人者視点で戦闘が描写されていました。

F(ファースト)P(パーソン)S(シューター)という、一人称視点で描く手法は、バイオハザードなどゲームの世界でよく取り入れられる手法です。

悟空がブロリーとの戦闘シーンに入る前に、今までよくやっていた屈伸運動ではなく、その場で何度かジャンプしていました。

そのジャンプの時、映像が縦に揺れていましたよね。

あれは、FPS視点での戦闘シーンに観客が慣れるための、観客視点での準備運動だったのです。

だから画面を揺らしていたのです。

今回はアニメにFPS的視点、つまりゲーム的視点を入れてきたということがわかります。

 


ということで、色々な発見ができて良かったです。

 

 

銀魂2の感想

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銀魂2 掟は破るためにこそある、の感想。

映画館が爆笑に包まれたかと思いきや、今度は嗚咽が聞こえてきてみんなシクシク泣いていたりして、ちょっと異常な光景でした。

9割が下ネタ中心のギャグアニメなので、こんなに人って泣くんだ、とビックリしました。

私も、アニメ版銀魂で一番腹筋崩壊したシーンと涙腺崩壊したシーンが入っていて、マーケティングされているなあと思いましたが、完璧にやられました。

人って爆笑したあと号泣して、数秒後に爆笑できるものなのか、と。

改めて銀魂の落差の魔術と、過去の偉大なアニメへの尊敬から来るオマージュの幅広さに感服しました。

これを許した日テレさん、フジテレビさん、テレ朝さんも素晴らしいと思います。

生きている間に、こんな映画にあと何回出逢えるのか。。。

久しぶりにシーンを見たことで改めて気づいたところもあったので、感想書きたいと思います。

銀魂を愛する全てのファンへ。

銀魂を愛する者より。愛を込めて。

銀魂第1作含めネタバレします

 


銀魂実写版前作の凄さのおさらい

日本ではアニメの実写化に失敗する傾向がある中で、前作の銀魂は下記の5つの要因で大成功したと思っております。

 


1.ストーリーの質(ベタ視点)

2.原作イジり(メタ視点)

3.キャスティングイジり(タレント)

4.時事ネタ(リアルタイム性)

5.ドキュメンタリー(アドリブ)

 


要は、ベタにストーリーが面白く、でも実写なので当然原作と違う部分があり、それを自らイジり、タレントのほかの仕事や人間関係をイジり、映画公開タイミングでホットだった時事ネタをイジり、完璧なカットだけでなくあえてアドリブを入れされNGシーンっぽくてもそのまま映像化してしまう、という手法です。

ほとんどの実写映画は1の原作部分をいかに忠実に再現するか、あるいは逆張りで裏切るかのどちらかで、前者なら実写化する必要がないですし、後者は原作ファンの怒りを買って失敗して終わります。

でも銀魂実写版は、2~5の視点があることで、原作(漫画・アニメ)には出来ない、映画内での原作イジり、タレントイジり、映画公開時の時事ネタイジり、映像にしかできないアドリブ性を活用し、大成功したのです。

これも、福田雄一監督の手腕に尽きます。

 


■第1作との比較

では今回は、前作とどう違うか。

「1.ストーリーの質の部分」に重点を置いてきたと思います。

今回は、原作ファンの中でもかなりギャグ回として人気の将軍ネタと、シリアス回として人気の真選組動乱篇を入れてきました。

しっかりマーケティングしており、ギャグもシリアスもクオリティが高めなので、ファン層寄りに見えつつも、新規層を十分狙えるものだったと思います。

 


もちろん、イジりネタもあり、冒頭から映画泥棒ネタや俳優・小栗旬菅田将暉をイジるタレントネタや、前回好評だった佐藤二朗のアドリブネタが投下されましたが、前回よりバランスが悪いというか、全部前半にしつこいくらいネタを詰め込んだ印象があります。

これはおそらく、後半のシリアス篇を盛り上げるために前半に詰め込まざるを得なかったのだと思います。

また、前回は原作ファンによる実写化批判をいかに跳ね返すかという課題もあり、原作イジり(特にエリザベス実写化イジり)が効果的でしたが、原作ファンにも好評で、消費され尽くしたので、今回はもう使えなかったことも大きかったと思います。

その分後半からラストのシリアスなシーンは爆発力がありましたし、その中でも随所に危ないギャグを入れて笑いを誘う、そのバランス能力の高さは素晴らしいと思います。

 


■テーマその1:絆

では、評論に入りたいと思います。

面向きのテーマは、タイトルにあるような、掟破りの著作権無視のパロディし放題のギャグをやっていくぜ!ということですが、裏テーマは、絆だと思います。

ストーリー上では、ヒール役の伊東鴨太郎が孤独を克服するために成り上がるが誰にも理解されず、最後に仲間の絆に気づくという話ですが、特に後半、絆・繋がり(あるいは遮断)を示すモチーフが多く出てきます。(ちなみに、名前の由来は違いますが、鴨太郎という名前から、ストーリー上では最終的にカモにされる、ということがわかるキャラ名になっています)

 


まずは列車です。

近藤局長を助けるため、沖田が車両の接続部分を切り離し、局長を閉じ込めます。

これは、局長との関係を切断してでも局長を助けたいという沖田の想いを表現しています。

(ちなみに沖田は裏切り者を次々に斬り殺すアクションシーンがありますが、あれはアクションシーン自体に意味があるのではなく、裏切り者に対しては絆を切るキャラということを暗示させるためだと思います)

次に鴨太郎の腕です。

列車の爆発により、鴨太郎の左腕が切断されます。

これは、仲間との絆を切断した(裏切った)罪を表現しています。

その後鴨太郎は落下しそうになりますが、局長が鴨太郎の右腕を掴み、その局長を沖田、新八、神楽が支えます。

ここで、切断しかかった絆の再接続が表現されています。

そして最後、土方との決闘の後、真選組との絆の復活を黄色い糸で表現して終わります。

つまり、鴨太郎視点では、一度切れた絆を繋ぎ直して終われた、という話になっています。

 


ここで忘れてはならないのは、主人公の銀さんの視点です。

銀さんはこの間、鬼兵隊の河上万斉と決闘します。

万斉がワイヤーのようなもので銀さんの手足を縛り付け、銀さんは引きちぎろうとしますが、逆に手足がもげそうになります。

万斉からも、そのまま抵抗すると手足が切れるぞ、と言われます。

しかしギリギリのところで銀さんははねのけ、ワイヤーの方が切れます。

これが意味するところは、鴨太郎との対比です。

鴨太郎は仲間を裏切り、腕が切れました。

しかし銀さんは、仲間を裏切らない存在なので、絶対に手足は切れないのです。

万斉に、なぜお前はそこまでするのか?と問われます。

明言はしませんが、映像から、仲間の為であることがわかります。

このワイヤーを使ったアクションシーンも非常に冗長に感じる方もいたと思いましたが、このアクションシーンも、仲間を裏切らない銀さんと、裏切ってしまった鴨太郎の対比を表現するためなのです。

 


■テーマその2:ヘタレ

そもそも土方がヘタレアニメオタクになったことがきっかけで(というかそれも鴨太郎の陰謀で)真選組が混乱することになったのですが、その土方がヘタレになったのは、自分のヘタレな部分を強化するチップを打ち込まれたことによりヘタレになった、という設定になっています。

その後、エヴァのシンジ君のパロディがあり、シミュレーションゲームをやりますが、克服できず、最終的には銀さんの荒療治と自身の克服によってヘタレを突破していきます。

ここ、ギャグシーンなのですが、非常に興味深いです。

なぜなら、エヴァのシンジ君は、AC(アダルトチルドレン)と分析されることが多いからです。

そして鴨太郎が仲間を裏切るようになった過去も、理解者を得られず、親からも承認欲求を得られなかった存在、つまりアダルトチルドレン的存在として描写されているのです。

つまり、ヘタレアニメオタクになった土方と、幼少期から承認欲求を得られなかった鴨太郎は、同じヘタレ的な存在として重ねられるように描写されているのです。

もっと言うと、銀さんだって、普段はほぼニートのヘタレです。

登場人物全てが何かしらのヘタレな部分を持っているのです。

人間は誰しもが、ヘタレな部分を持っている。

問題は、それをどう考えるのか、です。

 


鴨太郎は、ヘタレな自分を克服したように見えて、自分を理解してくれない周りに復讐しようとし、高杉に魂を売ってしまいました。

土方は、銀さんの助けもありながら、局長を守るためにヘタレを克服しました。

銀さんは、普段はヘタレですが、やる時はやる、主人公補正がかかりました。

銀さんの場合は、仲間のために男気スイッチが入るのでしょう。

人間はヘタレだけど、魂までは売っちゃダメで、そうならないためにも仲間の助けがいるのだ、ということがわかります。

 


■テーマその3:承認欲求という自意識

上記で書いたように、周りから理解されない、それは周りがバカだからだ、という鴨太郎のような自意識は、非常に厄介です。

そしてこれは、制作側の意識でもあると思うのです。

映画をヒットさせるには、原作ファンだけが楽しめるものではダメで、今旬のタレントを使って新規層を集客しないといけない、でもそれは本当にやりたいことなのか?本当に作りたい映像なのか?と。

鴨太郎の悩みは、制作側の意識そのものだと思いました。

 


と同時に、最後の山崎の葬式のシーンには救われました。

彼は最後、実は生きていた、ということがどうでもいいこととして描写され、それでも土方が戻ってきてみんなが喜んでいるのならまぁいいか、という風に、自己承認欲求を一旦横に置きました。

人間は、別に承認欲求が必ずしも満たされなければいけないわけではない、そんなものは幻想である、という山崎的な視点で終わらせるのが、素晴らしかったですし、このシーンで救われた方も多かったと思います。

 


■テーマその4:戦略

少々話が逸れるかもしれませんが、松平片栗虎の凄さについて言及します。

みな、剣術の強さで大事な人を守る中、キャバクラ通いのヘタレなオッサンの松平が、将軍を襲われそうになりましたが、実は将軍は偽物で、本物は別のところにいる、というシーンがありました。

これは、さすがだと思いました。

戦って勝つのではなく、戦わずして勝つ、まさに戦いを省略することそれ即ち戦略というお手本であり、ただのキャバクラ好きのオッサンではないということをサラッと描写しているのが凄いと思いました。

 


■最後に

色々書きましたが、銀魂の凄いところは、何度観ても飽きないところだと思います。

初めて観るストーリーがどんなものなのだろう?というドキドキではなく、もう何度も観ていて十分知っているのに、内容は分かっているのに、観る度に笑ってしまう、泣いてしまう、という魅力です。

歌舞伎的なものですかね。

なので、リピートしたくなりますし、観たことがない方には、本当に一度でいいから観て欲しいと思いました。

 


銀魂に出逢えて、本当に良かったです。

 

カメラを止めるな!の感想

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カメラを止めるな、の感想。

 


梅田の映画館で観ましたが、さすが大阪、お客さんが大爆笑で、最後に拍手喝采でした。

面白いですが、手法としてはフェイクドキュメンタリーというそこまで目新しいものではないのに、なぜここまでバズるのか、を考察しました。

たまたまですが、同時期に公開中のインクレディブルファミリーを観たことで、インクレディブルファミリーと真逆のアプローチでGoogleに対抗しようとしているから、ということが理解できました。

ドキュメンタリーvs作家主義、グーグルvsディズニー、西洋哲学vs東洋哲学、原理主義vs文脈主義、で整理すると明確になります。

 


ネタバレします。

 


■あらすじ

ゾンビ番組制作で起こるハプニングを回収していく話。

 


■フェイクドキュメンタリー

冒頭からゾンビ映画のワンシーンのような場面からスタートしますが、これを監督がカットし、アドバイスしたり休憩するなど、映画制作の裏側を見せるようなシーンから始まりますが、こういう制作現場の裏側をあたかも丸ごと見せているかのような撮影方法を、ドキュメンタリー風、ということで、フェイクドキュメンタリーと呼びます。

要は、ガチのように見えるフィクションです。

本作は、フェイクドキュメンタリーの番組制作を放映しているように見せながら、更にその番組制作の撮影過程をも見せるという、フェイクドキュメンタリーのフェイクドキュメンタリーという二重構造を取っています。

二重構造なのが斬新ですが、フェイクドキュメンタリー番組自体はそこまで真新しいものではありません。

テレ東の山田孝之主演の東京都北区赤羽だったり、ホラー映画などでよく使われる手法です。

海外でも、カメラの長回しのフェイクドキュメンタリーということでは、ビフォアサンライズという恋愛映画が該当します。

 


■なぜバズっているのか(原理主義vs分脈主義)

そんな、わりとそこまで斬新ではない手法ですが、なぜここまでバズっているのか。

1つには、映像文化の二分化があると思います。

特に映画がそうですが、莫大な予算をかけ、迫力のある映像で勝負するか、低予算で映像自体以外の魅力で勝負するか、大きく二分しているのが今の映画界です。

そして、前者のように莫大な予算をかけられるのは、ハリウッドやディズニーだけです。

そうなると、前者のように迫力のある、最新のテクノロジーを使った映像は、一般大衆にわかりやすいので、大ヒットします。

お客さんだって、1,800円という大金を払ってわざわざ映画館に足を運ぶのですから、非日常的な圧倒的な映像を見たいでしょう。

圧倒的なテクノロジーを使った、パッと観て凄い!と思わせる考え方を、原理主義と呼びます。

 


一方、そこまで予算をかけられない映画は、映像自体の迫力では勝負出来ないので、それ以外で勝負せざるを得ません。

そこで本作のように、ギミックを入れて勝負します。

そういう映画は、パッと観の迫力ではなく、伏線を回収したり物語を解釈させるところで勝負する、分脈がキモとなるものが多いので、分脈主義と呼ばれます。

映画界では今、原理主義派のハリウッド、ディズニーと、分脈主義派のそれ以外に二分化しています。

前者がインクレディブルファミリーと、まだ観てませんがおそらくミッションインポッシブルやオーシャンズ8ジュラシックワールドが該当し、後者が邦画が対抗しているという状況でしょう。

 


西洋文化vs東洋文化の対比

上記をまとめると、予算をかけられる欧米と、予算がない日本と言え、これは経済的理由ですが、それ以外に、文化的にも欧米は予算をかけて作り込んだ映像を作ることに長け、日本は予算をかけず作り込まないドキュメンタリー的な映像を作ることが得意という文化的土壌があります。

ざっくり言うと、地政学的理由により、特にアメリカにおいては土地が広大なため、アメリカ全土に生放送の映画を届けるのが難しいため、作り込んだ録画映像を流すことが多く、一方日本では、土地が狭いため、全国に生放送を届けることが容易だった、だから生放送的なドキュメンタリー映像を作ることが多く、得意であるという歴史があるのです。

 


■本作の何が面白いのか?

では、本作の特徴に入ります。

それは、冒頭で30分ワンカットのゾンビ番組の生放送を流した後、なぜそうなったのかという裏事情を流し、その上で、生放送の制作現場が実際にどんなハプニングが起きていたのかを見せながらほぼもう一度同じ映像を別の視点で見せる、という手法です。

メイキングや裏舞台を見せているだけに見えますが、普通そういう場面はガチですが、その裏舞台ですら映画の一部であり、冒頭で観たゾンビ番組のちょっとした違和感やぎこちなさの理由や伏線を回収していくという構造になっています。

 


様々な視点で分析できると思いますが、私が最初に思い浮かんだとのは、ポプテピピックというアニメです。

 


ポプテピピック

映画だけしか観ていない方にはわからないかもしれないのですが、去年、かなり話題になったテレ東のアニメで、ポプテピピックという番組があります。

30分番組で、前半と後半パートに分かれているのですが、前半と後半で全く同じ映像を流すのです。

ただし、声優が違うのです。

この、声優が違う、というだけで、映像は同じなのに違った見え方をしてくるというのが面白さなのです。

なぜ違って見えるかというと、声優にはそれぞれ演じている代表的なアニメキャラがおり、まるでそのキャラがしゃべっているかのような錯覚に陥るからです。

これは、そのアニメを知らないとわからない、知っていればその分脈を楽しむ快楽があるという、典型的な分脈主義型アニメです。

このように、映像は一緒でも、見方が変わると違うものに見える、見えているもの以外のものを見ることで予算をかけていない映像でも楽しめる、という点で、本作と非常に似た視点を持っていると思います。

 


つまり、本作は、同じ映像を別の視点や事情を知った上で観ると別の見方ができるという手法が面白いのです。

 


■ゾンビが象徴するもの

ここから、メタ視点での分析、評論に入りたいと思います。

なぜ、題材がゾンビなのか?です。

ゾンビというのは、死んでいながらも現世を彷徨っている存在です。

これは、映像文化そのもののメタファーなのです。

映像という、もはやそのフレームの中で何が起こっても驚かないし、リアルかフェイクなのかもわからないもの、他人が映った仮想現実に、人間はお金を払わなくなってきているのです。

その代わり、Googleを代表するような、現実そのもの、拡張現実的なもの、自分の物語を拡てくれるものにお金と時間を使うようになっています。

映像文化は死んだ、でもまだ世の中を彷徨っている、まるでゾンビのような存在だ、と言いたいのです。

 


監督が番組の中で誇張して女優に叫ぶセリフがあります。

「リアルが欲しいんだよ!なんでリアルがないか?それはお前がニセモノだからだよ!」

ここは確信犯的に印象に残すように叫んでいます。

女優も映像のメタファーであり、その女優に、お前はニセモノだ、ホンモノになるにはリアルになれ、と叫びます。

見えている映像=ニセモノ、ということです。

では、リアルとは何か?

それは、現実=GoogleYouTubeです。

映画が、現実=GoogleYouTubeに飲み込まれそうになっている、という危機感を感じさせるセリフなのです。

だから、現実に負けないように、まるでリアルの垂れ流しのような手法の映画を撮ったのです。

 


■テレビへのアンチテーゼ

通常、映画はこのようなドキュメンタリー映像を得意としません。

それは、テレビの領域です。

テレビが低予算で生放送番組を作り、映画が予算をかけて作り込んだ番組を作るのです。

本当は、テレビにこういうドキュメンタリー映像で世の中を面白くしてほしいのに、なぜ出来ないの?と、テレビ業界へ疑問を投げつけているとも取れるのです。

 


■ドキュメンタリー番組の欠点

と、ここまでべた褒めで書いてきましたが、ドキュメンタリーというのは、欠点もあります。

それは、笑いの民度が下がってしまうところです。

本作でハプニングが起きるシーンは、酔っ払い、嘔吐、便意、演技の憑依など、人間というよりは動物的なハプニングに依存します。

それは仕方ありません。

ハプニングというのは、理性のコントロールが効かないことで起きるものだからです。

アマゾンプライムビデオでも、ハプニングを意図的に起こして面白い番組を制作する、松本人志のドキュメンタルという番組がありますが、これもほぼ面白いシーンは下ネタです。

ただある意味、理性的で作家主義的な西洋に対抗するには、動物的で自然的な作り方しかない、というのは、構造的には正しいのかもしれません。

 


■インクレディブルファミリーとの類似点

補足的に、私が最近インクレディブルファミリーを観たから、ということで、本作との類似点を語りたいと思います。

本作が、垢抜けない監督でありパパであるという主人公と、最後は妻や子供など家族の活躍があってピンチを切り抜けるというところが類似していたのが興味深かったです。

おそらく、映画鑑賞世代ど真ん中なのが40代の家族を持つ男性だから、というターゲット論でそうなっているのかもしれません。

 


ということで、面白い映画でした。

 

インクレディブルファミリーの感想

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インクレディブルファミリーの感想。 

 


一見ファミリー向けの映画のように見えますが、さすがピクサー、極めて批評性の高い映画です。

ヒーロー映画における男性性(白人男性至上主義)の失墜、映像文化の現状を把握する上で非常に参考になる作品です。

子供に連れられて観に行ったらむしろパパの方がハッとされられるということを狙っている映画なので、是非観に行くことをオススメします。

ファミリー向け映画と勘違いされて映画評論界の中で相手にされずに終わるのは勿体無いので、私が解説しておきたいと思います。

 


■あらすじ

法律によりヒーロー活動が禁じられた世界で、ある日、ヒーロー活動の復活を求める者が登場する。

そこで、ヒーロー活動を再開すべく法律改正のためのプロジェクトを立ち上げるが。。。

 


■男性性の失墜

ストーリーを最後まで見れば、今回は男性が活躍させてもらえない、正確には白人男性の活躍を封印した映画であり、女性のイラスティガールや家族、黒人が活躍する話だとわかります。

が、それは、ロボットアニメやヒーロー映画が好きな方には冒頭で既にわかるように、文法に乗っ取っていることがわかります。

 


■アンダーマイナーの存在

映画冒頭、アンダーマイナーという敵役が、ドリルで現れ、パパのボブと戦います。

名前からわかる通り、この敵は、アンダー(下っ端)であり、マイナーな存在である、という記号性を帯びています。

雑魚キャラ、モブキャラなのです。

そして彼の武器は、ドリルです。

ロボットアニメオタクなら当然の知識ですが、ドリルというのは、男性器のメタファーです。

つまり、ドリルというのは、男性の活躍の象徴なんですね。

2007年に放送された天元突破グレンラガンというアニメでは、70年代回帰というテーマでドリルを象徴的武器に使っていましたが、まさに70年代の男性性大活躍の時代に戻したいという意思を、ドリルに込めました。

そのドリル=男性性が、現代ではアンダーでマイナーな存在であり雑魚キャラなのだ、ということが、いきなり冒頭でわかるようになっています。

 


乗り物から見る性

男性性の優位性の失墜については、映画に出てくる乗り物からもわかります。

これも基礎文法ですが、男性性の象徴として表現される乗り物は、自動車です。

車には男性しか乗れないというのがヒーロー映画の法則です。

その車が、物語終盤手前まで、瑣末に扱われます。

その代わりに登場するのが、メトロ、飛行機、バイク、船、つまり車以外の乗り物です。

イラスティガールが車でなくバイクに乗るのは車=男性の乗り物であるので、女性である彼女は乗れないからですし、船が女性を表す単語というのを英語で習っている方はわかる通り、最後の決戦舞台が船という時点で、黒幕が女性であることもわかるようになっています。

 


そして車の意味もラストでアップデートされています。

最後に家族とヴァイオレットが全員で車に乗りドライブするシーンがあります。

これは、既に車というものが男性性の象徴ではない、家族のもの=ファミリーカーであるということを表現しています。

でないと、わざわざドライブシーンを入れる意味がありません。

 


■ヒーローの現状と過去作品のオマージュ

見てわかる通り、ヒーローというのは既に相対化されているわけです。

それは、前作のMr.インクレディブルでも既に描写されていました 具体的には、ヒーローを正義の味方ではなく、単なる職業の一種である、と描いたのです。

歴史的背景としては、構造主義以降のポストモダンにおいて、正義とは誰にとっての正義なのか、悪とは誰にとっての悪なのか、片一方の視点だけで正義を描くのはおかしいという、70年代のベトナム戦争の影響があり、その反動としてのわかりやすい正義回帰としてのスターウォーズがあり、さらにその反動として決定的な影響を与えた同時多発テロがあるのですが、Mr.インクレディブルが描かれたのは04年なので、かなり正義の相対化を描写するのは早いです。

しかし、日本においても奇しくも同年に仮面ライダーブレイドという作品でヒーローを職業として相対化して描いています。 

さらに同年、ウルトラマンシリーズでも主人公がウルトラマンに変身せずウルトラマンが敵として描かれるウルトラマンネクサスが放映され、ヒーロー像が再定義されていますし、アイドルシーンではあのAKB48が結成された年です。 共通しているのは、正義=中心と、それ以外=辺境、という境界の無効化・再定義が行われているということです。

正義はみなに支持される行為ではない、むしろ男性性の恣意的な暴走だというのが、冒頭から確信犯的に描かれます。

特に警察官による事情聴取で、被害はむしろヒーロー活動によって抑制されたどころか拡大したと指摘されます。

この、実際に現実にヒーローがいた場合は被害が拡大することもあるというリアリズムは、ウルトラマンでは実相寺昭雄作品、アニメでは富野由悠季無敵超人ザンボット3で描かれています。

特にザンボット3は、地上にヒーローが現れた際は道交法違反で逮捕されるなど、緻密なシミュレーションをしているアニメで、本作もその視点を入れていることは間違いありません。 そして、その視点を入れると、むやみやたらと戦いを繰り広げることは現実的に難しく、 戦いを諦めざるを得ません。

そういった、相手のことや状況を考えると、正義というのは執行すると大変迷惑だという描写になるのです。

スーパーヒーローとは、男性のオナニーである、とハッキリ言ってしまっているのです。

 


■敵の正体

興味深いのが、敵の描写です。

敵はスクリーンスレイヴァーと名乗り、映像をハックし、催眠術をかけて人間を操作し、ヒーローを倒そうとします。

ディズニーの本音が出ているセリフも全開です。

ダラダラとクイズ番組を見たりしてソファーから立ち上がろうとしない、ヒーローが助けにきて守ってくれるのを待つだけ、システムは笑顔でお前らをからかっている、などなど、言いたい放題です。

映像の奴隷になっている、ヒーローに助けを求める甘えた大衆を啓蒙し、世直ししたい、という思想です。

私はここに感動しました。

なぜなら、映像文化そのものを敵と見なし、映像を敵対視することは、映像コンテンツで世界一のディズニーという自分自身を否定することでもあるからです。

敵は自分自身なのです。

映像から体験へ、という時代において、ついに映像文化の代表であるディズニーは、自身の映像文化そのものの否定に突入したのです。

ジェンダー視点の遅れを取り戻してアップデートしたアナ雪からさらに進化を遂げ、映像を見るな、とまで言ってのけたのです。

ポストモダン以降のヒーロージャンルでは、敵の描写にも苦しんだ歴史があります。

なぜなら、正義と悪は立場の相違だけであって、誰が正義で誰が悪なのかは、立場によって違うため、必然的に味方も敵も明確にはわからないからです。

その結果、悪は不在となります。

絶対的な悪などないのです。

だから正義であるはずのヒーローが自ら悪になったり、正義の側が無理やり悪をねつ造しないといけない事態になります。

2011年に放映されたタイガー&バニーというアニメでは、正義の側が作為的に悪を雇い正義を執行する環境を無理やり作り出していましたし、ダークナイトジョーカーはバットマンがいないと自分に存在理由がないこと、つまり正義と悪は表裏一体の共依存関係にあることを吐露しました。

そして本作の敵=悪も、映像文化という点ではピクサー・ディズニー=正義の側と同じであり、正義=悪という関係性となっています。

唯一、主人公側にはファミリーがおり、敵にはファミリーがいない(殺された)、という違いだけです。

ただし、そこがファミリーをテーマにする上で決定的な違いであるということも言えますが。

 


ピクサー・ディズニーの本音

映画では、さらに本音が吐露されています。 イラスティガールとイヴリンの会話です。

建前では、何を売るか、よりもどう売るかが大事だけど、本音では、自分が作りたいものを作るべきだ、と。 ディズニーには大きなマーティング研究所があります。 徹底的にマーティングし、大衆に受けるような映像を作り、ヒットさせなければいけません。

でも、本音では、作りたいものだけを作りたい。

そんな本音を、しれっとこの会話に入れているのです。

なんて大人向けなのでしょう。

ラストシーンでも、一番大事なシーンはフロゾンに活躍させます。

脇役かつ黒人、です。

主人公かつ白人のボブが活躍しても、グローバルな視点では売れないからです。

徹底してマーティングしています。

でも、本音をブチ込むことは忘れません。

 


■まとめ

ピクサー・ディズニーが置かれている状況がヒシヒシと伝わってきます。

古き良きアメリカ文化をリスペクトし、残したい。

でも、今は白人男性だけが活躍する作品を描いてもオナニーになってしまう、それは第三帝国や女性の犠牲を前提にしたからこそ成立していただけで、それはヒーロー活動でさえそうだ、と。

グローバルな視点に立って黒人も女性も活躍する作品にしないといけない。

映像文化を残したいが、ダラダラと受動的に見る映像は淘汰されなければならない、とした時に、ディズニー自身の自己否定になってしまう。

そんな悩みを吐露しながらも、一見スカッとする映画に見せている手腕がさすがだと思いました。

誰もこの評論を見ていないと思いますが、何も考えずに見られる映画だからこそ、制作陣はこれだけ悩みを抱えているし、過去作をたくさんオマージュしているという視点で映画を見ることも出来ることを、ここに残しておきたいと思います。

大変素晴らしい作品でした。

万引き家族の感想

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万引き家族』を鑑賞。

 


社会問題を切り取り、血縁家族以外の家族のあり方を模索する、という基本コンセプトは『誰も知らない』からずっと継続しており、それと何が違うのか、前作の『第三の殺人』から何がアップデートしているのか。

この作品自体と、前作との違い、是枝監督の自意識、そしてこの先どうなる、これらの視点で評論しました。

ネタバレしております。

 


■あらすじ

血の繋がっていないワケあり家族の日常を描いた作品。

 


■家族観について

血の繋がった家族よりも、血の繋がっていない家族、血縁家族より擬似家族、というのは、『誰も知らない』から一貫したコンセプトです。

日本人は血縁家族より擬似家族を信頼する傾向があります。

アジア圏では中国が血縁家族重視傾向があり、欧米も同傾向がありますが、それ以外のアジアやアフリカでは、産みの親より育ての親というカルチャーの方が強い傾向にあります。

そこを描く是枝監督の家族観は、わりと間違っていないどころか、日本的には正しいです。

むしろ逆に、なぜ血縁家族の大切さが執拗に日本を束縛していたのか?という問いの方が重要です。

私見では、国民国家繁栄のために欧米文化を踏襲しなければならないという強迫観念があったからですね。

そして、もはや戦後的なもの、国民国家的なものが必要なくなり、グローバル化が進むことで、血縁家族以外の新しい繋がりを求めても良いという流れになってきており、過渡期なのでまだ血の繋がりのない擬似家族に対する国家のサービスや保証、セーフティネットが追いついていないので辛いよね、という話ですね。

ニュースピックス的な語り口であれば、さっさとベーシックインカム導入しよう、だったり、民間サービスでフォローしよう、クラウドファンディングで暮らしていこう、となりますが、まだこれらは旧い世界の人間をターゲットにした作品なので、前向きな未来のソリューションの話はせずに、危機感を煽って終わらせるに留めていますね。

 


■男性正社員の不在

本作はわりと記号的にテーマやメッセージを入れ込んでいる感じでしたね。

その中で特に意図的に描いていたのは、主人公の擬似家族の中に、男性正社員がいないことですね。

主人公は日雇いバイト、奥さんは工場の派遣、娘はライトな風俗で働いています。

それ以外は祖母の年金を頼りに生活しています。

主人公の同僚が家に来た時、あの人正社員だよね?いいなーというセリフが露悪的に放たれます。

本作のメッセージとして、リタイア層はともかく、現役でそこそこ豊かに暮らしていくには、正社員サラリーマンではないと厳しい(特に公務員だったり大企業だったり、男性だったりすると尚良い)というのがひしひしと伝わってきます。

象徴的に言うと、そういった男性正社員およびその家族や共同体に所属していれば日本で暮らすにはイージーモードだけど、そこから溢れた瞬間に人生ハードモードになるよ!というメッセージですね。

これを、映画監督という不安定な職につく是枝監督が説得力を持たせている感じです。

 


記号的、という点では、濡場のシーンでは雨が降り、祖母が天に帰る直前のシーンでは海に行きます。

濡れ場=雨、生命の起源=終わり=海、という記号性です。

ここまで露骨に記号性を使うあたり、男性正社員の不在も意図的な記号性であることを表明しているのではないかと思います。

 


■繋がりの理由について

単に血が繋がっているだけで一生家族という連帯を持たなければいけないという発想が古いものであることには同意です。

そこで本作ではオルタナティブとして、繋がる理由というか価値観が提示されます。

主人公は、愛です。

娘は、金です。

祖母は嫉妬、憎しみです。

確かにオルタナティブとしては、完成度の高い理由ではありません。

それぞれ、愛がなくなったら、金がなくなったら、憎しみが消えたら、終わりです。

ただ、こう言えるかもしれません。

この変化の激しい時代に、そもそも一生連帯が必要な共同体などあるのか?

それぞれ、繋がりたいときに繋がれる、まさに弱い繋がり(ウィークタイ)があればそれでいいのでは?

ネットワーク理論全盛の時代では、むしろ人と人が繋がりすぎるとお互いに身を滅ぼすよという、Ζガンダム以降の富野由悠季の予言通りのような気もするのです。

 


■子供の存在について

ここで少し子供の存在について話しましょう。

是枝監督的には、子供は(特に女子は)守るべき存在として描かれます。

ここは、どうなのでしょうね。

前近代に戻る必要は全くありませんが、子供というのはそもそも、近代社会以降の、産業社会に誕生した概念です。

詳細はフィリップ・アリエスの『子供の誕生』を読めという感じですが、子供というのは、大人社会における生産性向上のための道具として、奴隷として求められおり、まだ成長しきっていない大人という捉え方がされていました。

それが、工場労働者として一定の生産性ある人材育成のため、イギリスのオーウェル教育機関として学校を建設してから、子供は大人の道具ではなく教育を受けるべき『子供』としての認識がされるようになりました。

学校に行く必要があるから、子供なのです。

本作でも、擬似家族の中では子供は子供ではなく、盗っ人として、労働要員の1人です。

それが、擬似家族を解体され、学校に行くようになり、子供に戻ります。

ですが、教育は、今の時代、ネットがあれば十分なのです。

スタディアプリなど、Google先生で学べることは多いはずです。

2018年現在はまだかろうじて教育が機能しているかのような嘘が通用しますが、あと30年後には、教育はネットで十分になり、子供という概念すら、今と違った存在や概念になっているでしょう。

 


■前作『第三の殺人』との違いについて

前作との違いは何でしょう。

前作で私は、福山雅治役所広司がともに是枝監督の自己像だと評論しました。

福山雅治=理想の自分、役所広司=現実の自分のメタファーで、広瀬すず=理想の子供、福山雅治の娘=現実の子供のメタファーです。

是枝監督の自己像は正義の鉄槌を下す福山雅治で、理想の娘は言うことを聞いてくれてセックスもさせてくれる広瀬すずだが、現実は正義を下すと逮捕されるし娘は言うことを聞かない、万引きする娘です。

ここからすると、万引きということでは前作を踏襲しています。笑

これは偶然ではないと思います。

 


で、今回は、理想の自分を、主人公の子供に置いています。

なぜなら、自分の妹のように扱わないといけない拾い子の女子の世話役だからです。

是枝監督の性癖として、小さな女子を世話したい願望があるのです。

で、現実の自分は、リリーフランキーです。

ここで大事なのは、理想の自分=主人公の子供が、世話役の女の子を世話するのが嫌だと思っていること、そして実際、万引きはダメと言ったり茶々を入れてきてコントロールがきかないその子に振り回され、擬似家族を解体してしまうきっかけを作ってしまうことです。

ここからわかるのは、是枝監督は、小さな女子=庇護すべき存在というのは、言うことを聞いてくれない理不尽な存在であること、だから擬似的な父親であるリリーフランキーと戯れていたい、という本音がある一方、現実はそうさせてくれない存在がある、という意識です。

ここは、前作と、見立てが違えど、共通している意識なのではと思います。

違う部分は、仮想敵として、前作は法律でしたが、今回は職業というか就職システムや家族保証のあり方ですが、いずれも国家を仮想敵としているので、ネトウヨが発狂するのは合点がいきます。

 


■まとめ

是枝監督の意図に基本的には賛成です。

これだけ世の中が多様化する中、血の繋がりの一本足打法だけでいく、男性正社員サラリーマンを主軸としたラインナップで打線を組むことに限界がきています。

30年後にはむしろ副業や経済の柔軟化により、正社員サラリーマンとして一つの職業にしがみついている方が危険な時代が到来しているはずですが、過渡期の2018年現在は、まだ生き方の多様化が実践段階に至っていないので、厳しい状況です。

あえて、スマホというかネットの描写を一切きっているのは、そういうネット時代が、新しい時代を切り開くので、そのツールがないと厳しいということを描写するためだったのだと思います。

三度目の殺人の感想

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三度目の殺人』を鑑賞。

結局犯人誰なの?という問いを無効化してきますし、職業倫理の問題、是枝監督の家族観や人生観が垣間見えました。

理想の存在=役所広司、現実=福山雅治という是枝監督の自画像描写なんですけど、その欲望が宇野常寛さん的な言い方をするとレイプファンタジー的想像力が働いているあたり、危うい欲望だな、と。

そんなエロい欲望を垂れ流しながらも私みたいにメタ批評する人以外には一見社会派の映画として絶賛される、させるあたりが、さすがだという感じです。

そのあたりを書いてみます。

ネタバレ全開です。


■あらすじ

ある殺人事件が勃発、犯人は犯行を自供しており、弁護士の主人公が無期懲役に持ち込もうと事件を洗うが、ある事実関係が浮かび上がり、真相が二転三転していく。


■感想というかいきなりネタバレ解説

タイトルにある三度目の殺人、の三度目、というのは、主人公が手を下した殺人、無期懲役にできず死刑を止められなかったという意味での殺人、を表わしていますよね。

1度目は昔の役所広司、2度目は役所広司なのか広瀬すずなのか、そして3度目が福山雅治

本作では、殺人を犯した人間は、顔に浴びた返り血を拭い去る仕草をしますが、最後のシーンで主人公が返り血を拭い去るかのような仕草があります。

これが、三度目の殺人が主人公のことを表しているというわかりやすいシーンになっています。

ここはわかりやすすぎるというか観客をナメているというか、もう少し婉曲的な表現でもよかった気がしますが。


■結局犯人は誰なのか

では二度目の殺人事件の犯人は誰なのか?

これは、わかりません。

タイトルが三人目の殺人、であれば、広瀬すずで決定なのですが、三度目、ですからね。

人数ではなく回数しかわかりません。

深読みすると、主人公が三度目の殺人を犯したという描写は、自供した役所広司の死刑を止められなかったという意味ではなく、真犯人ではない役所広司を冤罪で裁いてしまったという意味とも取れますが、犯人の死刑であろうが実は冤罪であろうが、死刑制度により人を殺めたことに変わりはありません。

そもそも映画のテーマの一つとして、犯人を探ることではなく、犯人と決めた人間を裁く法制度や職業のあり方がテーマなので、あまりここにこだわるな、ということです。


■法制度と職業のあり方

上記に絡みますが、本作に出てくるセリフで、精神医学は科学ではなく文学、という言葉があります。

犯人の内面がどうか、動機はどうだったか、そんな分析というのは文学にすぎなく、重要なのは具体的事実と証拠によって裁判をスケジュール通り進行していくことだ、ということです。

皮肉でも何でもなく、裁判に絡む全ての職業人は、ボランティアをしているわけではなく仕事をしているわけですし、給料を貰っているわけですし、家族も休日もある普通の人間です。

やっぱ犯人違ったかも、という裁判のやり直しは全体スケジュールを狂わせることになり不可能なわけで、真実を突き詰めることは現実的に出来る範囲内のことで、という制限付きの行為なわけです。

ここらへんが、わりとヒーロー映画の文法を使っている感じがしました。

ヒーローも家族がいるんけで、際限なく悪を裁いている暇がないので、現実的にキリのいいところでやめますよ、だってヒーローは職業なんだから、という、ピクサーやマーベル、仮面ライダーブレイド的なものを感じます。


■個人のあり方

主人公はそういう意味で、仕事を出世や自己実現の手段として割り切れていた人物として描写されています。

常に事件の落とし所、勝ちどころ、戦術を練って最適解を導いていました。

が、途中で役所広司の存在により、その態度に疑問を持つようになります。

良い悪いではなく、仕事に感情を入れ始めていったのです。


■娘の存在

その契機の一つは、娘の存在ですかね。

役所広司は一つ目の殺人のあと娘と事実上縁を切っており、その肩代わりとして広瀬すずに入れ込みます。

主人公も離婚調停中でなかなか会えないものの、娘がいて、その娘への思いで共感が生まれ、犯人の心情に肩入れしていったという描写のように感じました。


■家族観、人生観について

これは是枝監督の自意識とも絡む問題ですが、中年オヤジが持つ家族観や人生観の理想と現実が現れています。

理想的には広瀬すずのような可愛くて従順な娘を持ちたい、そしてセックスもできるような、コントロール可能で性欲も満たせる、妻ではない女性が欲しいという理想があります。

足に障害を持った設定なのも、言い方は悪いですが、そういった行動範囲の制限された女の子の方が所有しやすいからですよね。

でも現実では、主人公の娘のように、言うことは聞かないは万引きはするわ、制御が不可能で生意気な存在の娘なんだよなぁ、なんでこんな生物のために働かなきゃいけないんだ。。という嘆きが聞こえてきます。

そして理想では役所広司のように許せない社会問題には殺人を犯してでも正義の鉄槌を下したい、でも現実だと捕まるから仕事を黙々とこなすわけですね。

この、理想=役所広司、現実=福山雅治という対比が描写されていました。


■最後に

まとめると、裁判員制度って人間の内面とか度外視して仕事が効率的に進行することしか考えてないよね、という視点を出しつつ、最後は是枝監督の内面がダダ漏れしていた、そんな作品でした。