カラオケ秘史 創意工夫の世界革命

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烏賀陽弘道 『カラオケ秘史―創意工夫の世界革命―』を読んだ。

【概要まとめ】
・カラオケは店舗数が多く、全国の駅が9600に対しカラオケ店舗は9800、カラオケ付き旅館含めると22万と圧倒的。また、余暇活動の参加人口でいうと、外食、旅行、ドライブの次、4500万人にのぼり、音楽鑑賞の4000万人、つまり聴かないけど歌う人が500万人いる。カラオケ代も音楽鑑賞代の3倍で、とにかく日本人は音楽を「聴く」より「歌う」のが好き。

・カラオケ機器を最初に作ったのは根岸重一というエンジニア、四年後にソフトと組み合わせて商業化に成功したのが井上大佑という流し(歌手)、カラオケボックスを発明したのが佐藤洋一という岡山の田舎のカラオケ喫茶兼うどん屋、通信カラオケの原理を発明したのが安友雄一という名古屋のミシン会社の子会社の原子力博士、音楽をデジタルデータ化する規格を作ったのが梯郁太郎という浜松の電子機器メーカー創始者。カラオケの発明者は一人ではなく、先人の発明を受け継ぎ各々が改良していくことでカラオケが完成。

・カラオケを最初に商業化した井上が米国「タイム」誌に紹介され、イグノーベル賞受賞
彼がカラオケの特許を取得しなかったからカラオケが爆発的に普及
井上はキャバレーで弾き語りして稼いでいたが、彼の弾き語り能力は客に合わせてテンポやキーを変えるもので、これがのちのカラオケ機能に発展、原曲が歌えず自己流で歌う客への対応能力で名を馳せた
曲の頭出しが可能なカセット機能が付いたアメ車のカセットを改造、マイクとエコーを付け今のカラオケ機能の原型を作った。つまりカラオケは自動車の普及と結びついている
カラオケ機器を売るためにサラリーマンをターゲットにスナックにリース、サクラを送り込み、客に歌う快楽をブーストしヒット、同じ機能を日本ビクターが作り、大手企業が参入、カラオケ市場が拡大。さらにパイオニアが音楽と映像が流れるレーザーディスクカラオケを販売、さらにカラオケが爆発的に拡大
井上より先にカラオケを作ったのは根岸だが、彼はエンジニアだったため、素人が歌いやすいカセットを作れなかったのと、歌を商売にするアーティストから職を奪う気かと怒りを買い、彼らと和協できなかったことが、後発の井上の成功につながった
カラオケは70年前後に爆発的にヒットしたが、これは、高度経済成長の産物である巨額の企業交際費が生んだ「接待」という企業文化と結託したからヒットした娯楽と言える。だからカラオケ導入期におけるカラオケは「スナックでおじさんが演歌、歌謡曲、軍歌を不特定多数の前で歌うもの」だった。それゆえ、若者・女性が好むポップス・ロックは対象外かつ、歌に自信のない人・恥ずかしがり屋の人にとって馴染めない娯楽だった

カラオケボックスの誕生
その後1985年、カラオケ喫茶とうどん屋を兼務する岡山の田舎でカラオケボックスが誕生する。元々佐藤は奥さんと兼業で働いていたが奥さんが交通事故で入院、カラオケ喫茶とうどん屋を同時に営業するためコンテナにカラオケ機器を積んだ時、「コンテナボックスの中でカラオケを歌える」と思いつき、カラオケボックスという営業スタイルを発明
カラオケボックスは建築法上手続き不要、ポータブルで運びやすく開業も閉店も自由、かつ場所が田舎だったので郊外・ロードサイド店舗型ビジネスのパイオニアでもあった
プライベート空間の時間貸しという側面も相まって、客層が朝は高齢者と主婦、昼は中高生、深夜は若者、車で家族連れとバラバラで、これまでのサラリーマンだけの客層から変化、選曲も歌謡曲からポップスへ変わり、音楽シーンにも大きな影響を与えた
当時不動産バブルにより経営者も土地貸し需要あり、ファミレス、コンビニも競合したが、カラオケ店舗は次々と拡大、ついに第一興商も参入し経営の主役は大企業へと移行
拡大ゆえの問題として、法整備の問題(飲食業なのか風営法なのか)、非行の温床とバッシング(未成年のカラオケボックスでのアルコール中毒死事件)もあったが、大手資本のバックアップで更に郊外から都市へ拡大、大型化・高級化路線へ
シダックスが高級化路線に進出、もともとレストラン経営を主力にしていたが、レストランにカラオケを組み合わせ、かつカラオケのハードは作らず店舗経営に特化しているためスピーディーに、独自性を武器に拡大。さらに不良の溜まり場イメージ払拭のため、若年女性を狙ったインテリアにし、新店開店前には市役所や警察関係者を招待、根回しで成功
カラオケは70年代に高度成長と自動車により都市で生まれ、80年代には高速道路網の整備により都市郊外に波及、都市へ逆輸入された(ただしカラオケボックスという郊外・ロードサイド型ビジネスは、オールターゲット戦略として大成功したが、複合商業施設(ショッピングモール)の増加により衰退)

・カラオケ再生機、カラオケボックス、そして第三の波、92年の通信カラオケの誕生
通信カラオケ以前はCDを入れないといけないから、CDが場所を食う、手間がかかる、最新の曲導入後までタイムラグが発生するの対し、通信カラオケはカラオケ音楽をデジタルデータ化し、カラオケ再生端末機に電話回線を通じて電気信号で送られ、記録でき、曲が増えても場所を食わない
通信カラオケを開発、製造したのはカラオケ会社でもオーディオメーカーでもなく、名古屋のエクシングというミシン会社の老舗ブラザー工業の子会社に就職した北海道大学院の電子工学博士、安友
85年電話回線の開放により通信回線でMIDIという楽譜データを送付可能に
タイトーが2ヶ月先に通信カラオケを販売してしまっていたが、サブホストコンピュータがないので回線が詰まる、費用が跳ねるという事態が発生、エクシングはそれを見越し全国にサブホストコンピュータを設置済みだった(これにより曲の再生遅延が防止可能)
懐メロは著作権で使えなかったので若者をターゲットに若者向けの曲を用意し成功
91年のミリオンヒット(9曲)誕生の理由は、CDラジカセの普及、CDの低価格化、テレビタイアップ、そして通信カラオケの登場
テレビタイアップ後に落ちるCDの売上が通信カラオケで歌われることで伸び続ける、まさに通信カラオケが巨大メディア化した

MIDIの誕生
コンピュータと音楽が繋がることを見越して作られた
ラップ、ヒップホップもMIDIがなければ普及してなかった

【感想・評論】
・特許、著作権について
カラオケの発明者に共通するのは、みな特許を取ろうとしない無欲な人たちだったということ。いずれも特許を取っていれば数億~数百億の財産を手に入れられたのに、そんなことに興味を持たなかった。「歌が好きだから、歌うことの快楽を広めたい、歌を楽しんでほしい」「こんな面白いビジネス、世界にないからチャレンジしたい」という純粋な思いが彼らを駆り立て、成功させた。逆にいうと、金銭欲や虚栄心が動機になって作られるものなど大したことはないということ。そしてこの特許がなかったことで大手が参入、今日のカラオケ文化が普及できた。何かを爆発的に普及・民主化するためにはコスト(価格)の低下が大きな課題になることが多いので、特許がなかったことはカラオケの爆発的普及に大きく影響していると思う。
よく、日本人に普及していく文化、1億総〇〇という現象は、日本人の単一民族性・国民性という文化的側面に回収されることが多く、ルースベネディクトの『菊と刀』的な、恥の文化に当てはめられ、人前問わず勝手に歌える欧米人と、カラオケボックスという、世間=コミュニティの中でなら安全に歌える日本人という精神分析的アプローチでの指摘に留まることが多いが、著書では文化的要因ではなく経済的要因での指摘が入っていることが斬新で面白い事例だと思う。
そして、歌謡曲=懐メロというものが著作権という壁により使用しづらかったためにカラオケのラインナップに入れず失墜していったのは何とも皮肉な現象だ。
著作権による個人的、短期的利益、経済的繁栄を狙うべきなのか、特許を取らず社会的、長期的利益、文化的繁栄を狙うべきなのか、非常に考えさせられる。

・歌謡曲からポップスへの流行歌の流れについて
著書では上記についてターゲット論というビジネス視点で書かれていたが、ここは評論的視点からも追記したいことがある。
謡曲とは、例えば美空ひばりの「川の流れのように」を例に挙げると、日本が行動成長期に社会の荒波をくぐり、戦後は色々あったけど国民が一丸となって復興頑張ったよね、という国民への応援歌となっているもので、要するに「社会(の無意識)」を歌うものが歌謡曲だった。それが、高度成長期が終わり、70年代になると、日本社会の負の面が現れ始め、公害問題や学級崩壊など、科学や文化のネガが発露しはじめる。これは要は、もう社会の時代ではなくなってきた、ということ。では何の時代かというと、サブカルチャーの台頭や学級崩壊現象から考えると、「個人」の時代の到来だと考えることができる。そして、社会を歌う歌謡曲の代わりに、「個人」を歌う音楽という商業的要請ができたのではないか。
それがポップス、J-POPなのだと思う。そのJ-POP=個人が歌いやすい場というのは、不特定多数の、社会を生きているサラリーマンではなく、特定の、個人の世界を生きている「若者」であるから、カラオケが若者に浸透していったとも言えると思う。
つまり、カラオケの大衆化というのは、前提として経済的には特許ビジネスではなかったことで拡大し、それが若者にまで拡大していったのは、もちろん歌謡曲著作権で守られカラオケで使用出来なかったという制約はあったものの、それに加え、J-POPという若者=個人を歌ってくれる歌がカラオケに入っていたからという文化的側面も見逃せないと思う。
そして余談だが、そのあとカラオケが民主化し、素人の歌レベルが飛躍的に上がったあとの音楽業界で、プロが素人カラオケとの差別化を図るために編み出した手法が、「ヘタウマ・高音」という歌い方で、要はプロが上手すぎると素人は自分と違うなと相手にしないしそもそもカラオケで歌ってくれないのだが、歌いやすくかつ少し音程を外す歌い手の歌は、自分でも歌えるかも、自分の方が上手い、と積極的に歌ってくれる、でも素人だと到底出せない「高音」を歌うことで、やっぱプロはスゴイな、と思わせる手法でヒットしたのが、Glayをプロデュースした佐久間正英と、あの小室哲哉だ。その小室ファミリー一派である安室奈美恵を代表とするJ-POPが、浜崎あゆみにより一瞬歌謡曲への揺り戻しが起こり、さらにJ-POPが完全に一巡したあとの歌謡曲回帰としての乃木坂46や、90年代J-POPリバイバルとしての欅坂46と、日本の音楽業界は歌謡曲とJ-POPを往復し続けているのが面白いが、この論はまた次回に譲るとしよう。

・ビジネス拡大の仕方について
ビジネスの鉄則として、まずマーケットボリュームのある市場を狙う、という意味で、当時一番金を持ちターゲットボリュームもあった「サラリーマン(=接待文化)」に絞ってカラオケ機器を売った井上は賢いと思う。そこから民主化、つまりコストダウンに伴いターゲットを主婦や高齢者、学生など若者に拡大していくというやり方は、同時期に勃興したお笑いブームにも起きており、非常に正攻法

・自動車の影響について
著書でもあるように、自動車がカラオケ機器製造と郊外ロードサイドのカラオケ屋へのアクセシビリティに関わっており、カラオケ普及には自動車普及が欠かせなかったというのは非常に面白かった。自動車文化というのは映像文化と共通点がある。日本の自動車は、アニメもそうだが、20世紀のアメリカ文化のアレンジで、手塚治虫がアメリカのフル・アニメーションを、制作費や制作時間を削減するためにリミテッド・アニメーションとして採用し、これを日本製のアニメーションとして定着させたように、日本の自動車もアメリカのような広大な土地ではなく狭い道を走るのに必要な最小限のコンパクトカーを作り定着させた。つまり日本は余計なものを削り効率化させるのが得意だ。また、自動車文化そのものでいうと、人類の統合装置として働いた。これまで鉄道でしか移動手段がなかったところに、自動車というものが、プライベート空間そのままに、どの土地へも、どの文化にも触れられる、自己拡張装置として機能した。映像も、その映像を通し共通体験というものを共有できるようになり、想像上の共同体という感覚を獲得できるようになった。そんな輸入文化である自動車が、まさにカラオケという日本の独自文化として海外へ逆輸入する契機になったのは面白い。そしてカラオケがショッピングモールに吸収されていき、そのショッピングモールが次にどのような進化を遂げていくのかというのを想像するのも面白いと思う。

ということで、ハード(自動車・高速道路網・通信回線)とソフト(接待文化・特許・曲)によってカラオケがどう普及していったのかがわかる面白い本だった。