映画ルームの評論

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映画『ルーム』を観た
■あらすじ
閉じ込められた「部屋」から脱出した母と息子の話
■感想
以下、人によってはネタバレだから注意。
ネットで自称評論家の評論を漁ったんだけど、当たり前すぎる見立てにも言及できてなくてショック。
評論するなら最低限読み取ろう!(一般の方は「感動した」の感想でも仕方ないけど)
主人公の息子は明らかに「Google」のメタファー。
「はじめまして、【世界】」というコピーでわかるように、この映画を一言で言うと、「脱出前の狭い【世界】=映像(映画)の世界=20世紀、とのサヨナラと、脱出後の広い世界=現実=Googleによって情報化された世界=21世紀との出逢い(はじめまして)」。
冒頭に5歳になった主人公が色々なものを「おはよう、●●」と名前を呼ぶのは、人間=はじめに言葉ありき(モノありきではない)=モノを名詞化してモノを認識できる、というミシェルフーコー的認識論で、Google=モノを名詞化=情報化つまり名前付けで情報化し世界を認識する、ということを表現。
監禁部屋で「本当みたいなものは本当にある」の台詞と、TV観賞シーンは、現実と虚構の境界とは何か?という問いで、結論は、脱出前は「映像でも部屋の中にあれば本当、部屋の外にあるのはウソ」だったのが、脱出後は「情報化されてないものはウソ(現実にないものとして認識)、情報化されれば現実(リアル)」というGoogle的リアリズムを表現。
極論すると、Google的世界観では、情報化できてしまえばそれがリアルか虚構かは関係ないということ。
主人公はGoogle的な特性を持っている。例えば監禁部屋のロックは暗証番号キーのロック、高熱を出したふりはPCがオーバーワークして熱を持ってしまう状態、脱出後に婦人警官が主人公に的確な質問をしないと的確な答えが帰ってこないのは音声検索(Siri)の比喩、カーチェイスから道順逆算は位置情報検索(Google Map)、見えない菌はコンピュータウイルス、サングラスはGoogleグラス、人見知りでママを通して他者と会話するのはGoogle翻訳、「みんなって誰」という問いかけの「みんな」=集合知、「急ぎ過ぎ、急かさないで」というセリフはネットの回線速度、スマホでしか遊びたがらないのは自身がスマホだから。
脱出前の世界=不幸、脱出後の世界=幸福、という単純化を避けるのも面白い。
主人公は脱出後も時折「部屋に帰ろう」と弱音を吐く。脱出後の外の世界が無条件で素晴らしいものだとは描写されない。
最初は見たものを全て情報化し、とりあえず何でも試そう、と、情報化の快楽に溺れていたが、次々と新しいものに出会う恐怖や不安に直面したり、全てを情報化するのに疲れる。
でも、AI育成ゲーム的に進化していき、最後は監禁部屋に戻り、「部屋縮んだの?」と言いながら、アイテムを名詞で呼び「サヨナラ」する。
Googleにとっては、名詞化=情報化し取り込んだものは矮小な過去でしかなく、‘世界’とは現時点で情報化できている現実だ、という結論で終わる。素晴らしい。
■評論とまとめ
評論家なら最低限ここまでは必須。ここからが評論。
監禁部屋に出てくる、食べ物を食べるネズミは、食べ物という現実を食い散らかすディズニー(ネズミ=ミッキー)という虚構、つまり仮想敵であり競合、を排除したいという比喩。同じシーンを「インサイドヘッド」でディズニー自身が描写。
主人公が母親の感情をわからないシーンがあり、ここは、Googleもまだ人間の感情は情報化できていないという描写。
登場人物の成人男性=google的、無感情的で、 女性=人間的、感情的と描写しており、主人公は男の子だが子供かつ髪が長いので男性と女性の境界として描写。
本作はGoogleに留まらず、映画そのものについて自己言及している。
監禁された部屋というのは、映像の世紀=20世紀の比喩だが、映画(観賞)という行為そのものであると見立てている。
そして外の世界とは、映画=映像=20世紀を超えた、現実そのもの=Google=21世紀であり、現実こそが映画・エンタメだと。その究極形はYoutube。(日本では他人の現実観賞装置という意味で「アイドル」)。
ジェンダー的視点でも、監禁部屋は男尊女卑的世界、外の世界は女性活躍(婦人警官)世界、と描写。
最後に、本作は「人と人を繋げるもの」=Google、とまとめられる。でも、その母と息子のべったりした「気持ち悪さ」まで描かないとダメ。今世界で起きているのは、人と人が繋がれる素晴らしさや幸福ではなく、繋がりすぎるストレスや不幸だから。
それを描いたZガンダム伝説巨神イデオンは革新的だったという、最後は80年代の日本のアニメ・富野由悠季の先見性を再認識した。