リメンバー・ミーの感想

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リメンバー・ミーの感想。

例によってネタバレ全開、悪しからず。

 

■あらすじ

主人公がふとしたきっかけで死後の世界に迷い込み、そこから脱出しようとする話。

 

■感想

当初、タイトルを見て、これはディズニーが大躍進していく中で最初はピクサーだってオタク向けのヒット作メーカーとして頑張ってたんだからたまにはピクサーも思い出してね、という自己言及なのかと思っていましたが、もっと大きな話でした。

結論から言うと、ピクサートイストーリーの頃描いていた、古き良きアメリカへの憧憬と復活というテーマをアニメ=虚構を通して描く、というコンセプトからガラッと変わり、むしろ自分たち(アニメというジャンル)すら古き良きアメリカ側のものになってしまった、自分たちが保守・伝統へ回帰する、という決意表明をした映画でした。

順を追って話していきます。

 

■アナ雪短編は必要だったのか?

リメンバー・ミー本編の前に上映される、アナ雪短編。

評価を見ると、不要論が多いですね。

これは、ベタ的な意味では不要なのですが、メタ的に、リメンバーミーの制作意図を知る上では重要です。

台詞上何度も出てくる、「家族」「伝統」「帰る」。

まさに、リメンバー・ミーのコンセプトそのものですが、「家族・伝統的価値への回帰」を表明しています。

ストーリーとしては、アナたちがクリスマスパーティーを行おうとして周りの人を集めますが、みんな家族と過ごす伝統があるから、といって帰ってしまいます。

「私たちに伝統ってある?」と落ち込むアナに対しオラフが、クリスマスを盛り上げようとして色んな人からクリスマス用のグッズ的なものを分けてもらいますが、事故ってそれらを燃やして壊してしまいます。

凹んで帰ってくるオラフに、アナが、みんな(家族)がいればいいよ、と励まして終わります。

これが何を表わしているかというと、古き良きアメリカの伝統を持つあらゆるジャンルに対し、ピクサー=アニメーションは伝統を持っていなかった、だからわりとオタク向けの革新的なアニメを作ってきた、でももうそろそろ今度は自分たちが伝統の側になる、保守回帰し、古い側のジャンルになりつつあるということを自覚したということです。

 

■本編

本編もこのテーマを踏襲しています。テーマは家族と伝統、です。

古い家族観に縛りつけようとする家族に嫌気がさした主人公のミゲルが音楽という自己表現手段を手に入れようとするが、やはり家族に反対されてしまいます。

これは、ピクサー自身の自己言及でもあります。

アニメという自己表現手段を用いて、(テーマ自体は古き良きアメリカの復権ですが)新しい表現を切り開いてきたわけです。

そんな中、ふとしたきっかけで、死者の世界に迷い込む。

死者の世界とは、20世紀のアメリカ文化の比喩ですね。

20世紀のアメリカ文化である映画、音楽、そしてアニメ、これらと戯れたいという欲望と、それらをアップデートしたい欲望が現われています。

(2匹の動物が追いかけ合うシーンはまさにトムとジェリーを彷彿とさせます)

映画の最後、エンドロールの終わりにもありますが、「時を超えて私たちを支えてくれた全てのものを、私たちは忘れない」というメッセージが出てきます。

リメンバー・ミーとは、20世紀のアメリカ文化を忘れないで、ということですね。

そして興味深いのは、ここに、ピクサーが革新的なものの表現ではなく、保守回帰しているということです。

家族の大切さや、昔は良かったという回顧は、ついこの間までは、ディズニーの表現領域でした。

でもアナ雪をはじめ、ディズニーはリベラルへ転身しました。

(これ自体は、グローバルコンテンツ展開を行うための商業的要請からですが。)

ディズニーがリベラルへ転身したので、ピクサーはリベラルから保守へ回帰した、せざるを得なかった、という見方ができます。

 

物語の展開についても、アナ雪を踏襲しています。

アナ雪は大きな流れとして、中盤で一旦「Let It Go」を歌って、「ありのまま、ひゃっほーと生きたい」という本音を吐露し、でも現実はそうはいかない、と現実世界に戻り、白馬の王子に裏切られ、身近な男子も裏切り、エルサに救われるという流れで、要は中盤に本音の歌を歌ったあと、2回どんでん返しを行いオチに至るわけです。

本作も同じで、中盤で「ウンポコロコ」=自由奔放でいたい、の歌を歌い、終盤ラスボスと現実回帰の2回どんでん返しがありオチに至ります。

脚本でもアナ雪的展開を行うことを予言していました。

 

■政治的言及について

舞台はメキシコなので、直接的過ぎる感はありますが、メキシコ(=反アメリカ)を大切に!というトランプ批判ですが、これはあくまでそういう視点はあるけどそれがメインで表現したいことではないよ、題材として扱っているだけだよ、というメッセージでもあります。

政治的なメッセージはないけど政治的なテーマに触れてはおきます、という姿勢にとどめている感じがしました。

 

■他の作品との比較

グレイテストショーマン、スリービルボードとの比較で見ても面白いです。

 

グレイテストショーマンとは、「音楽」に対する考え方が違います。

グレイテストショーマンは、音楽を、みんなと繋がるためのツールとしてとらえています。また、サントラ化するなど、わりと音楽を商業化して活用しています。

そして音楽を、「現在」を祝福するためのものとして考えています。

一方リメンバー・ミーは、音楽を、過去とつながるためのツールとしてとらえています。

過去の記憶を再生するための装置で、それは音楽もそうですが、映画もアニメもそうです。

映像媒体が、過去の記憶の再生装置、ノスタルジー消費として位置づけられているものという批評性も描写しているわけです。

「This is me」=自分の物語・現在・経済、に対し、「Remember me」=他人の物語・過去・文化、という対比ができます。

 

スリービルボードとは、「人間観」に対する考え方が似ていて面白かったです。

スリービルボードは、一言で言うと、人間の二面性と、人間を赦すことがテーマです。

リメンバー・ミーも、家族を捨てて音楽を選んだ父をいかに赦すか、そして、人間は悪い部分も良い部分もあるよ、という二面性を表現していました。

スリービルボードは母親としての視点がメインで、子供視点がありませんでしたが、本作は母親視点もありつつ子供視点がメインという、視点の多様性があったように思います。

 

ということで、保守回帰したピクサーのアメリカ文化へのリスペクトが表現されていた映画だと思いました。