セッションの感想

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セッションの感想。

ネタバレ含みます。

 

■あらすじ

ジャズ・ドラマーに憧れる主人公ニーマンと、鬼教師フレッチャーとの、音楽を介した壮絶なバトル。

 

■感想
冒頭主人公が映画館で親父とポップコーンを食べながら見る映画が『男の争い』なので、これから男同士の激しい闘いが始まるのだとわかるニクい演出から始まり、スパルタ教育の壮絶さが展開されます。

この映画は色んな視点で示唆がありますが、「才能と狂気」「指導者と生徒」、そして、「デミアン・チャゼル監督」の視点で語りたいと思います。

ちなみに、テーマ的には「シゴいてでも才能は開花させるべきか?」のようにも見えますが、それは問題設定が間違っているので、そこも言及したいと思います。

 

■才能と狂気

僕の持論として、「才能がある人にはどんなに他人がその才能を引き延ばそうとしたり逆に邪魔しようとしても関与できない、才能は勝手に開花していく」という考えがあります。

本作は、才能があると自負する主人公を、鬼教師が伸ばそう(としながら足を引っ張る)のですが、最初はそれについていくものの、最後は鬼教師を無視する形で才能の片鱗を見せることになります。

つまり才能とは、他者から強制的にやれと言われたり、地位や名誉、金など、何かの目的達成のための手段としてそれをしている人ではなく、「それが好きだから、好きすぎるから、気付いたらそれを無意識にしている、それをしないと(精神的に)死んでしまう」という、半ば偏愛的な狂気と表裏一体なんですね。

そういう意味で、最初はドラム好きから出発したのに、途中から家族を見返すため、有名になるためにドラマーとして成功しようとして、手段としてドラムを叩くようになった主人公がシナリオ的には挫折と描写され、最後はそのしがらみから自由になり、没頭感やハマる感覚が天から舞い降りてきて神演奏する主人公の輝きは、再び才能を取り戻したという片鱗を見せて終わるのが綺麗な流れでした。

好きなものは、途中で鬼シゴキに遭おうが交通事故に遭おうが途中では止められないものなのですね。

 

■指導者と生徒

本作として評価が分かれる「スパルタ教育・パワハラ」的なテーマですが、これは技術的、キャラクター的、動機的な視点で語りたいと思います。

 

技術的には落合陽一の授業スタイルが一番合理的だと思います。

https://togetter.com/li/1202649

彼の授業には仏コース、人間コース、鬼コースというものがあり、それぞれ、ただ単位が欲しい人向け、その分野に詳しくなりたい人向け、その分野に進みたい人向け、という風に、自分でコースを選べます。

最後のコースには、「人間性を捧げろ!」とあるので、まさに知的なシゴキがありそうですが、その分野に進みたいと自己申告するだけの意志と熱意があるわけですし、もしダメでも仏コースがあるわけです。

まずは、選べる、ということが重要です。

 

キャラクター視点で語ると、本作の鬼教師は、明らかに指導者としては適性がありません。

最後まで見るとわかりますが、指導者は主人公の才能を伸ばそうと接しているつもりで、才能を潰しにかかっています。

おそらく、彼への嫉妬や、自身が演奏家として大成しなかった恨みをぶつけているのでしょう。

指導者としてはアウトなので、さっさと距離を取るべきです。

問題は、生徒です。

生徒に才能がない場合は鬼教師とさっさと距離を取りましょう。

ただ、才能がある場合、彼から学べる圧倒的努力の量があるので、そこだけでは学ぶ価値があるかもしれません。が、単に彼を見返したいという復讐だけの理由で音楽を続けると、目的と手段が逆転してしまうので注意だと思います。

 

動機的視点、つまりモチベーションで考えると、わりと興味深いのが、最近の五輪選手や最近大活躍の大谷翔平選手です。

彼らは活躍の理由として、努力を挙げるより、練習を楽しめていること、本番の試合も楽しめたかどうかを基準に語ることが多いように思えます。
才能の有無は前提ですが、それをもとに、自分がいかに楽しめるか、楽しめるよう練習をプログラムできるか、が大事なのだと思います。

それは、続ける力と言い換えることもできます。

別の例ですが、ドラゴンボールのセル編で悟空が悟飯と修行する際、単に筋肉量をアップさせるだけではダメで、戦闘力の底上げには、毎日の負荷に慣れることの大切さを説きます。

そしてセルとの戦いまでに、毎日24時間寝るときも含め、スーパーサイヤ人の状態でい続けることを提案します。

同じことを、イチローも言っています。

トレーニングは、自分の体のコントロールできる領域を拡大するために行うわけであって、いたずらに筋肉力を増やしても無駄だと。むしろ弊害だと。

この哲学に共通するのは、半ば強制的にギアを上げて練習することの大切さもある一方で、日々の積み重ね、続けることの大切さです。

シゴキが短期的なカンフル剤として機能することはあっても、長期的には有効ではないですし、そもそもシゴキ続けないと活躍できないような人は、最初から才能がなく、いつか燃え尽きるのでやめた方がいいです。

 

■チャゼル監督の視点

主人公が音楽の才能に惹かれ、挫折していく、その過程で家族や恋人と距離を取る、その生き方は、監督と重なるのだと思います。

音楽への憧れと挫折は事実として語られていますし、本作での家族との会話で、「金があって長生きして忘れられるより金がなくて(短命でも)出世したい」というのは監督の本音でしょうし、親父と映画鑑賞している時の主人公の目が死んでいるのもそれを表わしていると思いました。

また、恋人との会話で、「故郷が恋しいのかも」と語る彼女を振るのは、故郷への恋しさと決別しようとしている主人公を表わしています。

 

同監督の『ラ・ラ・ランド』との比較も面白いです。

ラ・ラ・ランドも、終盤でジャズバーで相手と出逢い直すのですが、一旦徹底的に距離を縮めた相手と距離を取ったあと再会し、もう一度他者として出逢うことで、違った刺激をお互い与え合うことができる、というのが面白いです。

おそらく監督の価値観なのでしょう。

 

■最後に

この映画、視点は色々ありますが、結局どうなのか?

個人的には、最後の主人公の愛憎渦巻く笑顔が全てを物語っていると思います。

シゴキを受けて挫折しそうになったこともあった、でも今自分は再び才能の片鱗を見せることができた、どうだ!というドヤ顔にも似た笑顔。

それは、昔自分を馬鹿にした全ての人に、今自分が映画監督として大成しているのだ、というドヤ顔でもあるような気がしました。

ただし、それは、相手に復讐できた!というやり返しの音楽としては、素晴らしかったんですけど、楽しむための音楽になっていたのかは疑問でした。

主人公は、追い込まれた状態で覚醒してすごい音楽は奏でられますが、観客を感動させる音楽、いや、そもそも自分が楽しいと思える音楽を演奏できているのか?がわかりませんでした。

そして皮肉にも、ジャズバーで音楽教師を退任した後の鬼教師のピアノが、一番穏やかで、優しく楽しそうに奏でられた音楽で、私はこちらの方がよかったです。

才能はあってもなくても人を苦しめるし、純粋に楽しいからやる、という状態を維持することがこんなに大変なのか、と考えさせられました。

ああ、才能が欲しい。才能があれば、たまにはシゴかれたい。