三度目の殺人の感想

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三度目の殺人』を鑑賞。

結局犯人誰なの?という問いを無効化してきますし、職業倫理の問題、是枝監督の家族観や人生観が垣間見えました。

理想の存在=役所広司、現実=福山雅治という是枝監督の自画像描写なんですけど、その欲望が宇野常寛さん的な言い方をするとレイプファンタジー的想像力が働いているあたり、危うい欲望だな、と。

そんなエロい欲望を垂れ流しながらも私みたいにメタ批評する人以外には一見社会派の映画として絶賛される、させるあたりが、さすがだという感じです。

そのあたりを書いてみます。

ネタバレ全開です。


■あらすじ

ある殺人事件が勃発、犯人は犯行を自供しており、弁護士の主人公が無期懲役に持ち込もうと事件を洗うが、ある事実関係が浮かび上がり、真相が二転三転していく。


■感想というかいきなりネタバレ解説

タイトルにある三度目の殺人、の三度目、というのは、主人公が手を下した殺人、無期懲役にできず死刑を止められなかったという意味での殺人、を表わしていますよね。

1度目は昔の役所広司、2度目は役所広司なのか広瀬すずなのか、そして3度目が福山雅治

本作では、殺人を犯した人間は、顔に浴びた返り血を拭い去る仕草をしますが、最後のシーンで主人公が返り血を拭い去るかのような仕草があります。

これが、三度目の殺人が主人公のことを表しているというわかりやすいシーンになっています。

ここはわかりやすすぎるというか観客をナメているというか、もう少し婉曲的な表現でもよかった気がしますが。


■結局犯人は誰なのか

では二度目の殺人事件の犯人は誰なのか?

これは、わかりません。

タイトルが三人目の殺人、であれば、広瀬すずで決定なのですが、三度目、ですからね。

人数ではなく回数しかわかりません。

深読みすると、主人公が三度目の殺人を犯したという描写は、自供した役所広司の死刑を止められなかったという意味ではなく、真犯人ではない役所広司を冤罪で裁いてしまったという意味とも取れますが、犯人の死刑であろうが実は冤罪であろうが、死刑制度により人を殺めたことに変わりはありません。

そもそも映画のテーマの一つとして、犯人を探ることではなく、犯人と決めた人間を裁く法制度や職業のあり方がテーマなので、あまりここにこだわるな、ということです。


■法制度と職業のあり方

上記に絡みますが、本作に出てくるセリフで、精神医学は科学ではなく文学、という言葉があります。

犯人の内面がどうか、動機はどうだったか、そんな分析というのは文学にすぎなく、重要なのは具体的事実と証拠によって裁判をスケジュール通り進行していくことだ、ということです。

皮肉でも何でもなく、裁判に絡む全ての職業人は、ボランティアをしているわけではなく仕事をしているわけですし、給料を貰っているわけですし、家族も休日もある普通の人間です。

やっぱ犯人違ったかも、という裁判のやり直しは全体スケジュールを狂わせることになり不可能なわけで、真実を突き詰めることは現実的に出来る範囲内のことで、という制限付きの行為なわけです。

ここらへんが、わりとヒーロー映画の文法を使っている感じがしました。

ヒーローも家族がいるんけで、際限なく悪を裁いている暇がないので、現実的にキリのいいところでやめますよ、だってヒーローは職業なんだから、という、ピクサーやマーベル、仮面ライダーブレイド的なものを感じます。


■個人のあり方

主人公はそういう意味で、仕事を出世や自己実現の手段として割り切れていた人物として描写されています。

常に事件の落とし所、勝ちどころ、戦術を練って最適解を導いていました。

が、途中で役所広司の存在により、その態度に疑問を持つようになります。

良い悪いではなく、仕事に感情を入れ始めていったのです。


■娘の存在

その契機の一つは、娘の存在ですかね。

役所広司は一つ目の殺人のあと娘と事実上縁を切っており、その肩代わりとして広瀬すずに入れ込みます。

主人公も離婚調停中でなかなか会えないものの、娘がいて、その娘への思いで共感が生まれ、犯人の心情に肩入れしていったという描写のように感じました。


■家族観、人生観について

これは是枝監督の自意識とも絡む問題ですが、中年オヤジが持つ家族観や人生観の理想と現実が現れています。

理想的には広瀬すずのような可愛くて従順な娘を持ちたい、そしてセックスもできるような、コントロール可能で性欲も満たせる、妻ではない女性が欲しいという理想があります。

足に障害を持った設定なのも、言い方は悪いですが、そういった行動範囲の制限された女の子の方が所有しやすいからですよね。

でも現実では、主人公の娘のように、言うことは聞かないは万引きはするわ、制御が不可能で生意気な存在の娘なんだよなぁ、なんでこんな生物のために働かなきゃいけないんだ。。という嘆きが聞こえてきます。

そして理想では役所広司のように許せない社会問題には殺人を犯してでも正義の鉄槌を下したい、でも現実だと捕まるから仕事を黙々とこなすわけですね。

この、理想=役所広司、現実=福山雅治という対比が描写されていました。


■最後に

まとめると、裁判員制度って人間の内面とか度外視して仕事が効率的に進行することしか考えてないよね、という視点を出しつつ、最後は是枝監督の内面がダダ漏れしていた、そんな作品でした。