万引き家族の感想

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万引き家族』を鑑賞。

 


社会問題を切り取り、血縁家族以外の家族のあり方を模索する、という基本コンセプトは『誰も知らない』からずっと継続しており、それと何が違うのか、前作の『第三の殺人』から何がアップデートしているのか。

この作品自体と、前作との違い、是枝監督の自意識、そしてこの先どうなる、これらの視点で評論しました。

ネタバレしております。

 


■あらすじ

血の繋がっていないワケあり家族の日常を描いた作品。

 


■家族観について

血の繋がった家族よりも、血の繋がっていない家族、血縁家族より擬似家族、というのは、『誰も知らない』から一貫したコンセプトです。

日本人は血縁家族より擬似家族を信頼する傾向があります。

アジア圏では中国が血縁家族重視傾向があり、欧米も同傾向がありますが、それ以外のアジアやアフリカでは、産みの親より育ての親というカルチャーの方が強い傾向にあります。

そこを描く是枝監督の家族観は、わりと間違っていないどころか、日本的には正しいです。

むしろ逆に、なぜ血縁家族の大切さが執拗に日本を束縛していたのか?という問いの方が重要です。

私見では、国民国家繁栄のために欧米文化を踏襲しなければならないという強迫観念があったからですね。

そして、もはや戦後的なもの、国民国家的なものが必要なくなり、グローバル化が進むことで、血縁家族以外の新しい繋がりを求めても良いという流れになってきており、過渡期なのでまだ血の繋がりのない擬似家族に対する国家のサービスや保証、セーフティネットが追いついていないので辛いよね、という話ですね。

ニュースピックス的な語り口であれば、さっさとベーシックインカム導入しよう、だったり、民間サービスでフォローしよう、クラウドファンディングで暮らしていこう、となりますが、まだこれらは旧い世界の人間をターゲットにした作品なので、前向きな未来のソリューションの話はせずに、危機感を煽って終わらせるに留めていますね。

 


■男性正社員の不在

本作はわりと記号的にテーマやメッセージを入れ込んでいる感じでしたね。

その中で特に意図的に描いていたのは、主人公の擬似家族の中に、男性正社員がいないことですね。

主人公は日雇いバイト、奥さんは工場の派遣、娘はライトな風俗で働いています。

それ以外は祖母の年金を頼りに生活しています。

主人公の同僚が家に来た時、あの人正社員だよね?いいなーというセリフが露悪的に放たれます。

本作のメッセージとして、リタイア層はともかく、現役でそこそこ豊かに暮らしていくには、正社員サラリーマンではないと厳しい(特に公務員だったり大企業だったり、男性だったりすると尚良い)というのがひしひしと伝わってきます。

象徴的に言うと、そういった男性正社員およびその家族や共同体に所属していれば日本で暮らすにはイージーモードだけど、そこから溢れた瞬間に人生ハードモードになるよ!というメッセージですね。

これを、映画監督という不安定な職につく是枝監督が説得力を持たせている感じです。

 


記号的、という点では、濡場のシーンでは雨が降り、祖母が天に帰る直前のシーンでは海に行きます。

濡れ場=雨、生命の起源=終わり=海、という記号性です。

ここまで露骨に記号性を使うあたり、男性正社員の不在も意図的な記号性であることを表明しているのではないかと思います。

 


■繋がりの理由について

単に血が繋がっているだけで一生家族という連帯を持たなければいけないという発想が古いものであることには同意です。

そこで本作ではオルタナティブとして、繋がる理由というか価値観が提示されます。

主人公は、愛です。

娘は、金です。

祖母は嫉妬、憎しみです。

確かにオルタナティブとしては、完成度の高い理由ではありません。

それぞれ、愛がなくなったら、金がなくなったら、憎しみが消えたら、終わりです。

ただ、こう言えるかもしれません。

この変化の激しい時代に、そもそも一生連帯が必要な共同体などあるのか?

それぞれ、繋がりたいときに繋がれる、まさに弱い繋がり(ウィークタイ)があればそれでいいのでは?

ネットワーク理論全盛の時代では、むしろ人と人が繋がりすぎるとお互いに身を滅ぼすよという、Ζガンダム以降の富野由悠季の予言通りのような気もするのです。

 


■子供の存在について

ここで少し子供の存在について話しましょう。

是枝監督的には、子供は(特に女子は)守るべき存在として描かれます。

ここは、どうなのでしょうね。

前近代に戻る必要は全くありませんが、子供というのはそもそも、近代社会以降の、産業社会に誕生した概念です。

詳細はフィリップ・アリエスの『子供の誕生』を読めという感じですが、子供というのは、大人社会における生産性向上のための道具として、奴隷として求められおり、まだ成長しきっていない大人という捉え方がされていました。

それが、工場労働者として一定の生産性ある人材育成のため、イギリスのオーウェル教育機関として学校を建設してから、子供は大人の道具ではなく教育を受けるべき『子供』としての認識がされるようになりました。

学校に行く必要があるから、子供なのです。

本作でも、擬似家族の中では子供は子供ではなく、盗っ人として、労働要員の1人です。

それが、擬似家族を解体され、学校に行くようになり、子供に戻ります。

ですが、教育は、今の時代、ネットがあれば十分なのです。

スタディアプリなど、Google先生で学べることは多いはずです。

2018年現在はまだかろうじて教育が機能しているかのような嘘が通用しますが、あと30年後には、教育はネットで十分になり、子供という概念すら、今と違った存在や概念になっているでしょう。

 


■前作『第三の殺人』との違いについて

前作との違いは何でしょう。

前作で私は、福山雅治役所広司がともに是枝監督の自己像だと評論しました。

福山雅治=理想の自分、役所広司=現実の自分のメタファーで、広瀬すず=理想の子供、福山雅治の娘=現実の子供のメタファーです。

是枝監督の自己像は正義の鉄槌を下す福山雅治で、理想の娘は言うことを聞いてくれてセックスもさせてくれる広瀬すずだが、現実は正義を下すと逮捕されるし娘は言うことを聞かない、万引きする娘です。

ここからすると、万引きということでは前作を踏襲しています。笑

これは偶然ではないと思います。

 


で、今回は、理想の自分を、主人公の子供に置いています。

なぜなら、自分の妹のように扱わないといけない拾い子の女子の世話役だからです。

是枝監督の性癖として、小さな女子を世話したい願望があるのです。

で、現実の自分は、リリーフランキーです。

ここで大事なのは、理想の自分=主人公の子供が、世話役の女の子を世話するのが嫌だと思っていること、そして実際、万引きはダメと言ったり茶々を入れてきてコントロールがきかないその子に振り回され、擬似家族を解体してしまうきっかけを作ってしまうことです。

ここからわかるのは、是枝監督は、小さな女子=庇護すべき存在というのは、言うことを聞いてくれない理不尽な存在であること、だから擬似的な父親であるリリーフランキーと戯れていたい、という本音がある一方、現実はそうさせてくれない存在がある、という意識です。

ここは、前作と、見立てが違えど、共通している意識なのではと思います。

違う部分は、仮想敵として、前作は法律でしたが、今回は職業というか就職システムや家族保証のあり方ですが、いずれも国家を仮想敵としているので、ネトウヨが発狂するのは合点がいきます。

 


■まとめ

是枝監督の意図に基本的には賛成です。

これだけ世の中が多様化する中、血の繋がりの一本足打法だけでいく、男性正社員サラリーマンを主軸としたラインナップで打線を組むことに限界がきています。

30年後にはむしろ副業や経済の柔軟化により、正社員サラリーマンとして一つの職業にしがみついている方が危険な時代が到来しているはずですが、過渡期の2018年現在は、まだ生き方の多様化が実践段階に至っていないので、厳しい状況です。

あえて、スマホというかネットの描写を一切きっているのは、そういうネット時代が、新しい時代を切り開くので、そのツールがないと厳しいということを描写するためだったのだと思います。