カメラを止めるな!の感想

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カメラを止めるな、の感想。

 


梅田の映画館で観ましたが、さすが大阪、お客さんが大爆笑で、最後に拍手喝采でした。

面白いですが、手法としてはフェイクドキュメンタリーというそこまで目新しいものではないのに、なぜここまでバズるのか、を考察しました。

たまたまですが、同時期に公開中のインクレディブルファミリーを観たことで、インクレディブルファミリーと真逆のアプローチでGoogleに対抗しようとしているから、ということが理解できました。

ドキュメンタリーvs作家主義、グーグルvsディズニー、西洋哲学vs東洋哲学、原理主義vs文脈主義、で整理すると明確になります。

 


ネタバレします。

 


■あらすじ

ゾンビ番組制作で起こるハプニングを回収していく話。

 


■フェイクドキュメンタリー

冒頭からゾンビ映画のワンシーンのような場面からスタートしますが、これを監督がカットし、アドバイスしたり休憩するなど、映画制作の裏側を見せるようなシーンから始まりますが、こういう制作現場の裏側をあたかも丸ごと見せているかのような撮影方法を、ドキュメンタリー風、ということで、フェイクドキュメンタリーと呼びます。

要は、ガチのように見えるフィクションです。

本作は、フェイクドキュメンタリーの番組制作を放映しているように見せながら、更にその番組制作の撮影過程をも見せるという、フェイクドキュメンタリーのフェイクドキュメンタリーという二重構造を取っています。

二重構造なのが斬新ですが、フェイクドキュメンタリー番組自体はそこまで真新しいものではありません。

テレ東の山田孝之主演の東京都北区赤羽だったり、ホラー映画などでよく使われる手法です。

海外でも、カメラの長回しのフェイクドキュメンタリーということでは、ビフォアサンライズという恋愛映画が該当します。

 


■なぜバズっているのか(原理主義vs分脈主義)

そんな、わりとそこまで斬新ではない手法ですが、なぜここまでバズっているのか。

1つには、映像文化の二分化があると思います。

特に映画がそうですが、莫大な予算をかけ、迫力のある映像で勝負するか、低予算で映像自体以外の魅力で勝負するか、大きく二分しているのが今の映画界です。

そして、前者のように莫大な予算をかけられるのは、ハリウッドやディズニーだけです。

そうなると、前者のように迫力のある、最新のテクノロジーを使った映像は、一般大衆にわかりやすいので、大ヒットします。

お客さんだって、1,800円という大金を払ってわざわざ映画館に足を運ぶのですから、非日常的な圧倒的な映像を見たいでしょう。

圧倒的なテクノロジーを使った、パッと観て凄い!と思わせる考え方を、原理主義と呼びます。

 


一方、そこまで予算をかけられない映画は、映像自体の迫力では勝負出来ないので、それ以外で勝負せざるを得ません。

そこで本作のように、ギミックを入れて勝負します。

そういう映画は、パッと観の迫力ではなく、伏線を回収したり物語を解釈させるところで勝負する、分脈がキモとなるものが多いので、分脈主義と呼ばれます。

映画界では今、原理主義派のハリウッド、ディズニーと、分脈主義派のそれ以外に二分化しています。

前者がインクレディブルファミリーと、まだ観てませんがおそらくミッションインポッシブルやオーシャンズ8ジュラシックワールドが該当し、後者が邦画が対抗しているという状況でしょう。

 


西洋文化vs東洋文化の対比

上記をまとめると、予算をかけられる欧米と、予算がない日本と言え、これは経済的理由ですが、それ以外に、文化的にも欧米は予算をかけて作り込んだ映像を作ることに長け、日本は予算をかけず作り込まないドキュメンタリー的な映像を作ることが得意という文化的土壌があります。

ざっくり言うと、地政学的理由により、特にアメリカにおいては土地が広大なため、アメリカ全土に生放送の映画を届けるのが難しいため、作り込んだ録画映像を流すことが多く、一方日本では、土地が狭いため、全国に生放送を届けることが容易だった、だから生放送的なドキュメンタリー映像を作ることが多く、得意であるという歴史があるのです。

 


■本作の何が面白いのか?

では、本作の特徴に入ります。

それは、冒頭で30分ワンカットのゾンビ番組の生放送を流した後、なぜそうなったのかという裏事情を流し、その上で、生放送の制作現場が実際にどんなハプニングが起きていたのかを見せながらほぼもう一度同じ映像を別の視点で見せる、という手法です。

メイキングや裏舞台を見せているだけに見えますが、普通そういう場面はガチですが、その裏舞台ですら映画の一部であり、冒頭で観たゾンビ番組のちょっとした違和感やぎこちなさの理由や伏線を回収していくという構造になっています。

 


様々な視点で分析できると思いますが、私が最初に思い浮かんだとのは、ポプテピピックというアニメです。

 


ポプテピピック

映画だけしか観ていない方にはわからないかもしれないのですが、去年、かなり話題になったテレ東のアニメで、ポプテピピックという番組があります。

30分番組で、前半と後半パートに分かれているのですが、前半と後半で全く同じ映像を流すのです。

ただし、声優が違うのです。

この、声優が違う、というだけで、映像は同じなのに違った見え方をしてくるというのが面白さなのです。

なぜ違って見えるかというと、声優にはそれぞれ演じている代表的なアニメキャラがおり、まるでそのキャラがしゃべっているかのような錯覚に陥るからです。

これは、そのアニメを知らないとわからない、知っていればその分脈を楽しむ快楽があるという、典型的な分脈主義型アニメです。

このように、映像は一緒でも、見方が変わると違うものに見える、見えているもの以外のものを見ることで予算をかけていない映像でも楽しめる、という点で、本作と非常に似た視点を持っていると思います。

 


つまり、本作は、同じ映像を別の視点や事情を知った上で観ると別の見方ができるという手法が面白いのです。

 


■ゾンビが象徴するもの

ここから、メタ視点での分析、評論に入りたいと思います。

なぜ、題材がゾンビなのか?です。

ゾンビというのは、死んでいながらも現世を彷徨っている存在です。

これは、映像文化そのもののメタファーなのです。

映像という、もはやそのフレームの中で何が起こっても驚かないし、リアルかフェイクなのかもわからないもの、他人が映った仮想現実に、人間はお金を払わなくなってきているのです。

その代わり、Googleを代表するような、現実そのもの、拡張現実的なもの、自分の物語を拡てくれるものにお金と時間を使うようになっています。

映像文化は死んだ、でもまだ世の中を彷徨っている、まるでゾンビのような存在だ、と言いたいのです。

 


監督が番組の中で誇張して女優に叫ぶセリフがあります。

「リアルが欲しいんだよ!なんでリアルがないか?それはお前がニセモノだからだよ!」

ここは確信犯的に印象に残すように叫んでいます。

女優も映像のメタファーであり、その女優に、お前はニセモノだ、ホンモノになるにはリアルになれ、と叫びます。

見えている映像=ニセモノ、ということです。

では、リアルとは何か?

それは、現実=GoogleYouTubeです。

映画が、現実=GoogleYouTubeに飲み込まれそうになっている、という危機感を感じさせるセリフなのです。

だから、現実に負けないように、まるでリアルの垂れ流しのような手法の映画を撮ったのです。

 


■テレビへのアンチテーゼ

通常、映画はこのようなドキュメンタリー映像を得意としません。

それは、テレビの領域です。

テレビが低予算で生放送番組を作り、映画が予算をかけて作り込んだ番組を作るのです。

本当は、テレビにこういうドキュメンタリー映像で世の中を面白くしてほしいのに、なぜ出来ないの?と、テレビ業界へ疑問を投げつけているとも取れるのです。

 


■ドキュメンタリー番組の欠点

と、ここまでべた褒めで書いてきましたが、ドキュメンタリーというのは、欠点もあります。

それは、笑いの民度が下がってしまうところです。

本作でハプニングが起きるシーンは、酔っ払い、嘔吐、便意、演技の憑依など、人間というよりは動物的なハプニングに依存します。

それは仕方ありません。

ハプニングというのは、理性のコントロールが効かないことで起きるものだからです。

アマゾンプライムビデオでも、ハプニングを意図的に起こして面白い番組を制作する、松本人志のドキュメンタルという番組がありますが、これもほぼ面白いシーンは下ネタです。

ただある意味、理性的で作家主義的な西洋に対抗するには、動物的で自然的な作り方しかない、というのは、構造的には正しいのかもしれません。

 


■インクレディブルファミリーとの類似点

補足的に、私が最近インクレディブルファミリーを観たから、ということで、本作との類似点を語りたいと思います。

本作が、垢抜けない監督でありパパであるという主人公と、最後は妻や子供など家族の活躍があってピンチを切り抜けるというところが類似していたのが興味深かったです。

おそらく、映画鑑賞世代ど真ん中なのが40代の家族を持つ男性だから、というターゲット論でそうなっているのかもしれません。

 


ということで、面白い映画でした。