インクレディブルファミリーの感想

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インクレディブルファミリーの感想。 

 


一見ファミリー向けの映画のように見えますが、さすがピクサー、極めて批評性の高い映画です。

ヒーロー映画における男性性(白人男性至上主義)の失墜、映像文化の現状を把握する上で非常に参考になる作品です。

子供に連れられて観に行ったらむしろパパの方がハッとされられるということを狙っている映画なので、是非観に行くことをオススメします。

ファミリー向け映画と勘違いされて映画評論界の中で相手にされずに終わるのは勿体無いので、私が解説しておきたいと思います。

 


■あらすじ

法律によりヒーロー活動が禁じられた世界で、ある日、ヒーロー活動の復活を求める者が登場する。

そこで、ヒーロー活動を再開すべく法律改正のためのプロジェクトを立ち上げるが。。。

 


■男性性の失墜

ストーリーを最後まで見れば、今回は男性が活躍させてもらえない、正確には白人男性の活躍を封印した映画であり、女性のイラスティガールや家族、黒人が活躍する話だとわかります。

が、それは、ロボットアニメやヒーロー映画が好きな方には冒頭で既にわかるように、文法に乗っ取っていることがわかります。

 


■アンダーマイナーの存在

映画冒頭、アンダーマイナーという敵役が、ドリルで現れ、パパのボブと戦います。

名前からわかる通り、この敵は、アンダー(下っ端)であり、マイナーな存在である、という記号性を帯びています。

雑魚キャラ、モブキャラなのです。

そして彼の武器は、ドリルです。

ロボットアニメオタクなら当然の知識ですが、ドリルというのは、男性器のメタファーです。

つまり、ドリルというのは、男性の活躍の象徴なんですね。

2007年に放送された天元突破グレンラガンというアニメでは、70年代回帰というテーマでドリルを象徴的武器に使っていましたが、まさに70年代の男性性大活躍の時代に戻したいという意思を、ドリルに込めました。

そのドリル=男性性が、現代ではアンダーでマイナーな存在であり雑魚キャラなのだ、ということが、いきなり冒頭でわかるようになっています。

 


乗り物から見る性

男性性の優位性の失墜については、映画に出てくる乗り物からもわかります。

これも基礎文法ですが、男性性の象徴として表現される乗り物は、自動車です。

車には男性しか乗れないというのがヒーロー映画の法則です。

その車が、物語終盤手前まで、瑣末に扱われます。

その代わりに登場するのが、メトロ、飛行機、バイク、船、つまり車以外の乗り物です。

イラスティガールが車でなくバイクに乗るのは車=男性の乗り物であるので、女性である彼女は乗れないからですし、船が女性を表す単語というのを英語で習っている方はわかる通り、最後の決戦舞台が船という時点で、黒幕が女性であることもわかるようになっています。

 


そして車の意味もラストでアップデートされています。

最後に家族とヴァイオレットが全員で車に乗りドライブするシーンがあります。

これは、既に車というものが男性性の象徴ではない、家族のもの=ファミリーカーであるということを表現しています。

でないと、わざわざドライブシーンを入れる意味がありません。

 


■ヒーローの現状と過去作品のオマージュ

見てわかる通り、ヒーローというのは既に相対化されているわけです。

それは、前作のMr.インクレディブルでも既に描写されていました 具体的には、ヒーローを正義の味方ではなく、単なる職業の一種である、と描いたのです。

歴史的背景としては、構造主義以降のポストモダンにおいて、正義とは誰にとっての正義なのか、悪とは誰にとっての悪なのか、片一方の視点だけで正義を描くのはおかしいという、70年代のベトナム戦争の影響があり、その反動としてのわかりやすい正義回帰としてのスターウォーズがあり、さらにその反動として決定的な影響を与えた同時多発テロがあるのですが、Mr.インクレディブルが描かれたのは04年なので、かなり正義の相対化を描写するのは早いです。

しかし、日本においても奇しくも同年に仮面ライダーブレイドという作品でヒーローを職業として相対化して描いています。 

さらに同年、ウルトラマンシリーズでも主人公がウルトラマンに変身せずウルトラマンが敵として描かれるウルトラマンネクサスが放映され、ヒーロー像が再定義されていますし、アイドルシーンではあのAKB48が結成された年です。 共通しているのは、正義=中心と、それ以外=辺境、という境界の無効化・再定義が行われているということです。

正義はみなに支持される行為ではない、むしろ男性性の恣意的な暴走だというのが、冒頭から確信犯的に描かれます。

特に警察官による事情聴取で、被害はむしろヒーロー活動によって抑制されたどころか拡大したと指摘されます。

この、実際に現実にヒーローがいた場合は被害が拡大することもあるというリアリズムは、ウルトラマンでは実相寺昭雄作品、アニメでは富野由悠季無敵超人ザンボット3で描かれています。

特にザンボット3は、地上にヒーローが現れた際は道交法違反で逮捕されるなど、緻密なシミュレーションをしているアニメで、本作もその視点を入れていることは間違いありません。 そして、その視点を入れると、むやみやたらと戦いを繰り広げることは現実的に難しく、 戦いを諦めざるを得ません。

そういった、相手のことや状況を考えると、正義というのは執行すると大変迷惑だという描写になるのです。

スーパーヒーローとは、男性のオナニーである、とハッキリ言ってしまっているのです。

 


■敵の正体

興味深いのが、敵の描写です。

敵はスクリーンスレイヴァーと名乗り、映像をハックし、催眠術をかけて人間を操作し、ヒーローを倒そうとします。

ディズニーの本音が出ているセリフも全開です。

ダラダラとクイズ番組を見たりしてソファーから立ち上がろうとしない、ヒーローが助けにきて守ってくれるのを待つだけ、システムは笑顔でお前らをからかっている、などなど、言いたい放題です。

映像の奴隷になっている、ヒーローに助けを求める甘えた大衆を啓蒙し、世直ししたい、という思想です。

私はここに感動しました。

なぜなら、映像文化そのものを敵と見なし、映像を敵対視することは、映像コンテンツで世界一のディズニーという自分自身を否定することでもあるからです。

敵は自分自身なのです。

映像から体験へ、という時代において、ついに映像文化の代表であるディズニーは、自身の映像文化そのものの否定に突入したのです。

ジェンダー視点の遅れを取り戻してアップデートしたアナ雪からさらに進化を遂げ、映像を見るな、とまで言ってのけたのです。

ポストモダン以降のヒーロージャンルでは、敵の描写にも苦しんだ歴史があります。

なぜなら、正義と悪は立場の相違だけであって、誰が正義で誰が悪なのかは、立場によって違うため、必然的に味方も敵も明確にはわからないからです。

その結果、悪は不在となります。

絶対的な悪などないのです。

だから正義であるはずのヒーローが自ら悪になったり、正義の側が無理やり悪をねつ造しないといけない事態になります。

2011年に放映されたタイガー&バニーというアニメでは、正義の側が作為的に悪を雇い正義を執行する環境を無理やり作り出していましたし、ダークナイトジョーカーはバットマンがいないと自分に存在理由がないこと、つまり正義と悪は表裏一体の共依存関係にあることを吐露しました。

そして本作の敵=悪も、映像文化という点ではピクサー・ディズニー=正義の側と同じであり、正義=悪という関係性となっています。

唯一、主人公側にはファミリーがおり、敵にはファミリーがいない(殺された)、という違いだけです。

ただし、そこがファミリーをテーマにする上で決定的な違いであるということも言えますが。

 


ピクサー・ディズニーの本音

映画では、さらに本音が吐露されています。 イラスティガールとイヴリンの会話です。

建前では、何を売るか、よりもどう売るかが大事だけど、本音では、自分が作りたいものを作るべきだ、と。 ディズニーには大きなマーティング研究所があります。 徹底的にマーティングし、大衆に受けるような映像を作り、ヒットさせなければいけません。

でも、本音では、作りたいものだけを作りたい。

そんな本音を、しれっとこの会話に入れているのです。

なんて大人向けなのでしょう。

ラストシーンでも、一番大事なシーンはフロゾンに活躍させます。

脇役かつ黒人、です。

主人公かつ白人のボブが活躍しても、グローバルな視点では売れないからです。

徹底してマーティングしています。

でも、本音をブチ込むことは忘れません。

 


■まとめ

ピクサー・ディズニーが置かれている状況がヒシヒシと伝わってきます。

古き良きアメリカ文化をリスペクトし、残したい。

でも、今は白人男性だけが活躍する作品を描いてもオナニーになってしまう、それは第三帝国や女性の犠牲を前提にしたからこそ成立していただけで、それはヒーロー活動でさえそうだ、と。

グローバルな視点に立って黒人も女性も活躍する作品にしないといけない。

映像文化を残したいが、ダラダラと受動的に見る映像は淘汰されなければならない、とした時に、ディズニー自身の自己否定になってしまう。

そんな悩みを吐露しながらも、一見スカッとする映画に見せている手腕がさすがだと思いました。

誰もこの評論を見ていないと思いますが、何も考えずに見られる映画だからこそ、制作陣はこれだけ悩みを抱えているし、過去作をたくさんオマージュしているという視点で映画を見ることも出来ることを、ここに残しておきたいと思います。

大変素晴らしい作品でした。