ドラゴンボール超 ブロリーの感想
完全に大人向けでしたね。
これまでの劇場版ドラゴンボールの中で最高傑作でした。
タイトルが英語で凝っていましたし、タイトルが出るまでのスピンオフの演出から涙が止まりませんでした。
色々論じたいのですが、特に今回取り上げたいのは、親子論、パラレルワールド、ブロリーの戦闘力、主題歌、敵の不在問題、FPSについてです。
その中でも、ブロリーがなぜスーパーサイヤ人やスーパーサイヤ人ゴッドと互角に戦えるようになるのか、一見単なるご都合主義に見えますが、ちゃんと鳥山明の理屈が入っているというところを論じたいと思います。
劇場版観た人向けに論じたいので、あらすじ説明は省略、ネタバレ有りとなっております。ご注意下さい。
※ネタバレ全開です※
■親子論
わりとわかりやすいベタなテーマとして、親子論(家族論)がありました。
どんな親に育てられると、どんな子供になるのか。
面白いのが、優秀な親だから優秀な子供になるとは限らないところです。
ベジータ王は自分の息子より強いブロリーに嫉妬する最低な親ですが、息子のベジータは地球で育つことで家族思いの愛妻家に変貌しましたし、バーダックはサイヤ人らしからぬ息子思いで、惑星ベジータから逃がしましたが、息子のカカロットはセルゲームで平気で息子の悟飯をセルに差し出すような、あまり息子思いな父ではありません。
パラガスは息子のブロリーの戦闘力を利用する最低の親ですが、ブロリーはいい奴です。
面白いのが、フリーザの父コルド大王は、さっさと引退し息子に実権を譲る良い父親だったことです。
それぞれのキャラの親と子の関係性が面白いです。
人間は生まれよりも育った環境が大事(だから自分の運命は自分で切り開け)という思想です。
今回、キャラ設定が今までの劇場版で出てきたものと違うことがあります。
これは全て、パラレルワールドだということを表しています。
そもそも劇場版自体がパラレルワールドという設定ですし、今回ブロリーが人間味のあるいい奴で父親思いなのも、これはこういう別のあり得た世界があるということです。
小ネタとして、初代ブロリーはベジータを岩盤に叩きつけめりこませるシーンがありますが、今回はフリーザがされていること、逆にブロリーがゴジータにやられ返されているのがオマージュとして面白いです。
ピッコロが助けるタイミングも、前回はそこまで戦力の差を感じないと思っていたのですぐに助けに行きましたが、今回は圧倒的な戦力の差があるので、逆に邪魔になるくらいなら行かない選択肢を選ぶのもパラレルワールドっぽさが出ています。
■ブロリーの戦闘力
では本題の、ブロリーの戦闘力について。
ブロリーがベジータと闘っていくうちに学習して戦闘力が上がっていきます。
ベジータがスーパーサイヤ人になってもスーパーサイヤ人ゴッドになっても追いついていきます。
スーパーサイヤ人2や3の変身を飛ばしているのは、フリーザの部下が、伝説のスーパーサイヤ人やスーパーサイヤ人ゴッドなんていませんでした、というフラグを序盤で立て、それを回収しているからですが、なぜあれだけ頑張って変身できたスーパーサイヤ人やゴッドの戦闘力にいとも簡単にブロリーは追いつけたのか。
一見、強い敵でも修行すれば簡単に追いつくご都合主義のようにも思えます。
が、今作は脚本から鳥山明さんご本人が関与していますし、鳥山明さんはめちゃくちゃ理屈っぽい人なので、彼なりのロジックがあるのです。
なぜ、ブロリーはあんなに強いのか。
鍵は、大猿化です。
ブロリーは、大猿の力を体内に取り込んで闘えるという設定になっています。
大猿の力がどれほどのものかは明示されていませんが、大猿の力があれば、スーパーサイヤ人ゴッドまでの戦闘力に訓練次第で対抗できるというロジックは確かに成立すると思います。
そして、スーパーサイヤ人ブルーに変身した悟空にさすがのブロリーも敗北するかと思われた瞬間、パラガスの死によってスーパーサイヤ人に目覚めます。
その結果、スーパーサイヤ人ブルーでさえも手に負えない強さになります。
ここではっきりわかりました。
大猿化した状態でのスーパーサイヤ人。
ドラゴンボール公式見解で明示されていますが、この大猿化+スーパーサイヤ人は、スーパーサイヤ人4の変身条件なのです。
つまり、スーパーサイヤ人ブルーは、スーパーサイヤ人4より弱いのです。
これは、時系列的にも、ドラゴンボール超→GTなので、ブルー→4の強さのヒエラルキーは正しいです。
大猿の力を取り込んだブロリーと、取り込んでいない悟空、ベジータの差が、この一見デタラメな戦闘力の急激な追いつき・追い越しを可能にしたのです。
■主題歌
歌詞も、本作の意図が表現されています。
細かい分析は省略しますが、要は運命を変えるのは自分の力であり、このストーリーは続いていく(続編がある)ということです。
■敵の不在問題
今回、はっきり言って敵はいませんでした。
敵はブロリーのようにも思いましたが、彼はいい奴として描写されていましたし、最終的には倒されずに終わりました。
これは、現代において敵の設定が困難になってきていることの証左だと思うのです。
悪い奴でも分かり合えれば良い奴になる、ポスト構造主義において真の敵は不在になるのです。
ヴェノムという映画も同じ問題を抱えていたから敵なのに憎めないキャラになっていたのだと思います。
敵なき時代における敵の設定条件は、今回のように、理性の喪失しかないのです。
理性を失って分かり合えない存在になった時にしか敵にできないのです。
ブロリーが育った環境が野生であることを強調していたのもそのためです。
■FPS
本作は、闘いを第三者視点で眺めているだけでなく、あたかも自分が闘っているかのような第一人者視点で戦闘が描写されていました。
F(ファースト)P(パーソン)S(シューター)という、一人称視点で描く手法は、バイオハザードなどゲームの世界でよく取り入れられる手法です。
悟空がブロリーとの戦闘シーンに入る前に、今までよくやっていた屈伸運動ではなく、その場で何度かジャンプしていました。
そのジャンプの時、映像が縦に揺れていましたよね。
あれは、FPS視点での戦闘シーンに観客が慣れるための、観客視点での準備運動だったのです。
だから画面を揺らしていたのです。
今回はアニメにFPS的視点、つまりゲーム的視点を入れてきたということがわかります。
ということで、色々な発見ができて良かったです。