R-1グランプリ決勝の感想。
お笑いにここまで時代性が反映されているのか、という驚きを感じた。
今の時代、他人を攻撃することは批判・炎上に繋がるから、自分を攻撃する自虐ネタか、誰も傷つけないクスクス笑いのどちらかしかウケないという仮説はあったが、R-1決勝がダイレクトにその世相を反映していたこのわかりやすさに一番笑ってしまった。
優勝した濱田祐太郎は、自身が視覚障害者であることを自虐ネタにしており、ネタのチョイスで優位に立っていたのと、漫才自体が巧かった。
さらに、Google検索では出てこない情報、つまり目が見えない世界を「身体言語化」するという究極の差別化が出来ていた。...
確かに視覚障害者のあるあるネタは、文字で読むよりも直接本人から聞いた方がそのリアルさがダイレクトに伝わってくるし、それを笑いに変えたら最強。はっきり言って圧勝だった。
最終決戦に残ったおぐ、ゆりやんレトリバァも、自虐ネタという時代性は捉えていたから最終決戦に進出したけど、そこから差別化できなかった。
逆に、他人への攻撃を笑いにする戦略を取った川邑ミク、紺野ぶるまは0ポイントだったので、他人を攻撃する笑いは完全に今の時代逆風だと証明されてしまったのが面白かった。
誰も傷つけない笑いを狙ったマツモトクラブも、最終決戦には行けなかったが、優勝した濱田祐太郎と予選で同点だったので、こういう笑いも今の時代はウケる、つまり他人を傷つける笑いはアウトな時代だとわかる。
ちなみに、80年代的な無意味性、意味のないクスクス笑いを狙った霜降り明星せいや、粗品も点数が低かったから、今の時代には不適合ということなのだろう。
自虐ネタという、自分をネタに笑いを獲る手法は、自分より「下」の人間と見做した者を容赦なく笑えるという、ある意味視聴者の「卑しさ」のインサイトを突いた手法だから、何とも複雑な気分。
松本人志が昔、お笑い芸人は自虐ネタをやったら終わり、と言っていたが、松本的な、お笑い芸人というプロが視聴者というアマチュアを見下した、アートとしてのお笑い、という思想を持ったお笑いは、もう民放バラエティでは厳しく、サブスクリプションサービスでしかできないということだろうね。今回も審査員に松本人志はいなかったし。
ということで、時代の必然性が表れていて面白かった。
以下、個別の分析。
■1本目
ルシファー吉岡:変態性をネタ化
カニササレアヤコ:上流文化をネタ化
おいでやす小田:ホテルの客をネタ化
おぐ:オヤジを自虐ネタ化
川邑ミク:風俗ビジネスと(メタ的に)ぶりっ子女子をネタ化
チョコレートプラネット:アトラクション・安全性をネタ化
ゆりやんレトリバァ:(自身の存在を自虐ネタに)昭和文化をネタ化
霜降り明星せいや:無意味性をネタ化(クスクス笑い狙い)
濱田祐太郎:視覚障害をネタ化(自虐ネタ)
紺野ぶるま:結婚できない女性をネタ化
霜降り明星粗品:世の中の日常的な矛盾をネタ(クスクス笑い狙い)
マツモトクラブ:家族ネタ(誰も傷つけない笑い)
■2本目(最終決戦)
おぐ:オヤジ性をネタ化(最後は自身の本音を出し過ぎ、自意識を吐露しすぎた感じ)
ゆりやんレトリバァ:自身をネタ化(少し自意識を吐露しすぎ)
濱田祐太郎:視覚障害をネタ化(自意識は特になく客観的に障害を笑い化できていた)
最後は自意識を出し過ぎた2組が自滅した感じもあった。
とにかく濱田祐太郎の笑いは完成度高かった。優勝おめでとうございます。
リメンバー・ミーの感想
リメンバー・ミーの感想。
例によってネタバレ全開、悪しからず。
■あらすじ
主人公がふとしたきっかけで死後の世界に迷い込み、そこから脱出しようとする話。
■感想
当初、タイトルを見て、これはディズニーが大躍進していく中で最初はピクサーだってオタク向けのヒット作メーカーとして頑張ってたんだからたまにはピクサーも思い出してね、という自己言及なのかと思っていましたが、もっと大きな話でした。
結論から言うと、ピクサーがトイストーリーの頃描いていた、古き良きアメリカへの憧憬と復活というテーマをアニメ=虚構を通して描く、というコンセプトからガラッと変わり、むしろ自分たち(アニメというジャンル)すら古き良きアメリカ側のものになってしまった、自分たちが保守・伝統へ回帰する、という決意表明をした映画でした。
順を追って話していきます。
■アナ雪短編は必要だったのか?
リメンバー・ミー本編の前に上映される、アナ雪短編。
評価を見ると、不要論が多いですね。
これは、ベタ的な意味では不要なのですが、メタ的に、リメンバーミーの制作意図を知る上では重要です。
台詞上何度も出てくる、「家族」「伝統」「帰る」。
まさに、リメンバー・ミーのコンセプトそのものですが、「家族・伝統的価値への回帰」を表明しています。
ストーリーとしては、アナたちがクリスマスパーティーを行おうとして周りの人を集めますが、みんな家族と過ごす伝統があるから、といって帰ってしまいます。
「私たちに伝統ってある?」と落ち込むアナに対しオラフが、クリスマスを盛り上げようとして色んな人からクリスマス用のグッズ的なものを分けてもらいますが、事故ってそれらを燃やして壊してしまいます。
凹んで帰ってくるオラフに、アナが、みんな(家族)がいればいいよ、と励まして終わります。
これが何を表わしているかというと、古き良きアメリカの伝統を持つあらゆるジャンルに対し、ピクサー=アニメーションは伝統を持っていなかった、だからわりとオタク向けの革新的なアニメを作ってきた、でももうそろそろ今度は自分たちが伝統の側になる、保守回帰し、古い側のジャンルになりつつあるということを自覚したということです。
■本編
本編もこのテーマを踏襲しています。テーマは家族と伝統、です。
古い家族観に縛りつけようとする家族に嫌気がさした主人公のミゲルが音楽という自己表現手段を手に入れようとするが、やはり家族に反対されてしまいます。
これは、ピクサー自身の自己言及でもあります。
アニメという自己表現手段を用いて、(テーマ自体は古き良きアメリカの復権ですが)新しい表現を切り開いてきたわけです。
そんな中、ふとしたきっかけで、死者の世界に迷い込む。
死者の世界とは、20世紀のアメリカ文化の比喩ですね。
20世紀のアメリカ文化である映画、音楽、そしてアニメ、これらと戯れたいという欲望と、それらをアップデートしたい欲望が現われています。
(2匹の動物が追いかけ合うシーンはまさにトムとジェリーを彷彿とさせます)
映画の最後、エンドロールの終わりにもありますが、「時を超えて私たちを支えてくれた全てのものを、私たちは忘れない」というメッセージが出てきます。
リメンバー・ミーとは、20世紀のアメリカ文化を忘れないで、ということですね。
そして興味深いのは、ここに、ピクサーが革新的なものの表現ではなく、保守回帰しているということです。
家族の大切さや、昔は良かったという回顧は、ついこの間までは、ディズニーの表現領域でした。
でもアナ雪をはじめ、ディズニーはリベラルへ転身しました。
(これ自体は、グローバルコンテンツ展開を行うための商業的要請からですが。)
ディズニーがリベラルへ転身したので、ピクサーはリベラルから保守へ回帰した、せざるを得なかった、という見方ができます。
物語の展開についても、アナ雪を踏襲しています。
アナ雪は大きな流れとして、中盤で一旦「Let It Go」を歌って、「ありのまま、ひゃっほーと生きたい」という本音を吐露し、でも現実はそうはいかない、と現実世界に戻り、白馬の王子に裏切られ、身近な男子も裏切り、エルサに救われるという流れで、要は中盤に本音の歌を歌ったあと、2回どんでん返しを行いオチに至るわけです。
本作も同じで、中盤で「ウンポコロコ」=自由奔放でいたい、の歌を歌い、終盤ラスボスと現実回帰の2回どんでん返しがありオチに至ります。
脚本でもアナ雪的展開を行うことを予言していました。
■政治的言及について
舞台はメキシコなので、直接的過ぎる感はありますが、メキシコ(=反アメリカ)を大切に!というトランプ批判ですが、これはあくまでそういう視点はあるけどそれがメインで表現したいことではないよ、題材として扱っているだけだよ、というメッセージでもあります。
政治的なメッセージはないけど政治的なテーマに触れてはおきます、という姿勢にとどめている感じがしました。
■他の作品との比較
グレイテストショーマン、スリービルボードとの比較で見ても面白いです。
グレイテストショーマンとは、「音楽」に対する考え方が違います。
グレイテストショーマンは、音楽を、みんなと繋がるためのツールとしてとらえています。また、サントラ化するなど、わりと音楽を商業化して活用しています。
そして音楽を、「現在」を祝福するためのものとして考えています。
一方リメンバー・ミーは、音楽を、過去とつながるためのツールとしてとらえています。
過去の記憶を再生するための装置で、それは音楽もそうですが、映画もアニメもそうです。
映像媒体が、過去の記憶の再生装置、ノスタルジー消費として位置づけられているものという批評性も描写しているわけです。
「This is me」=自分の物語・現在・経済、に対し、「Remember me」=他人の物語・過去・文化、という対比ができます。
スリービルボードとは、「人間観」に対する考え方が似ていて面白かったです。
スリービルボードは、一言で言うと、人間の二面性と、人間を赦すことがテーマです。
リメンバー・ミーも、家族を捨てて音楽を選んだ父をいかに赦すか、そして、人間は悪い部分も良い部分もあるよ、という二面性を表現していました。
スリービルボードは母親としての視点がメインで、子供視点がありませんでしたが、本作は母親視点もありつつ子供視点がメインという、視点の多様性があったように思います。
ということで、保守回帰したピクサーのアメリカ文化へのリスペクトが表現されていた映画だと思いました。
シェイプオブウォーターの感想
シェイプオブウォーターの感想。
最初に断わっておきますね。ネタバレ全開です。しかも説明にどうしてもグレイテストショーマンとスリービルボードという補助線、対立軸を持ってきたいので、途中からネタバレします。すいません。
■あらすじ
言葉を話せない女性が半魚人と恋に落ちる話。
■感想、の前に政治批判に関して
この映画がアカデミー作品賞を受賞したのは、障害者や黒人などのマイノリティを取り上げ、トランプ批判したから、という意見が多いんですけど、それはグレイテストショーマンもスリービルボードも同じだから、それが理由ではないと思うことを指摘しておきたいです。
グレイテストショーマンもサーカスにマイノリティの人たちを起用しますし、スリービルボードも黒人が出てくるのと映画の舞台となっているミズーリ州はアメリカの選挙戦の肝となる場所でトランプ批判を暗喩しているので、政治的言及がシェイプオブウォーターだけなされてたから受賞したというのはファクトレベルで間違いですね。
■感想
では、本題に入ります。
この作品は政治ではなく文学、文芸作品として評価された、と思うのですよ。
自分が感じたポイントは2点です。
1つは、視覚(死角)の問題。2つ目は、言葉の問題。
まずは1つ目から。
映画というのは視覚を操作するエンタメという側面があり、それが一番出来ていたのが本作です。
見ていて薄々気づいているとは思うんですけど、主人公の女性は、決して美人ではないですよね。そして半魚人も、ブサイクです。むしろ敵役の男性の方がハンサムです。
でも物語の後半になると、主人公がすごく美人に、半魚人がイケメンに見えてきますよね。
(もちろん演技力や演出力もありますが。)
人間は見た目ではない、内面なのだ、と、言葉にしたら陳腐な戯言も、映画という視覚メディアで表現すると、説得力が増すわけです。
スリービルボードも、人間の二面性、見た目は悪そうな性格だけど意外と良い一面もある、という内面の二重構造を描写していて良かったんですけど、内面描写による人間の変化は、小説などの文字媒体でも出来るわけです。
映像という、視覚媒体で出来ること、ということに関しては、見た目がブサイクから美人に見える本作の方が、媒体特性を活かしきったと言えます。
ちなみにグレイテストショーマンは、イケメンはイケメン、美女は美女というわかりやすさで勝負していた映画でした。
2つ目、言葉の問題。
映画というのはトーキー映画以降言葉を操作するエンタメである側面もあり、この点でも本作は興味深かったです。
自分が涙したのは、主人公が半魚人に愛の気持ちを伝えたいのに、障害で言葉が話せず、もどかしくてモゴモゴして、脳内で独りミュージカルを演奏して終わるところです。
主人公が言葉を話せないことを自分で嫌だと思ったり不自由だと感じるのは、半魚人に出会って以降なんですね。
それまでは、ゲイの画家と同棲し、働いて飯食ってテレビ見てお風呂でオナニーをして寝るという生活の繰り返しで、でもそれがすごく幸せそうに描かれます。
そんな生活が、逆に、半魚人という他者に出逢うことで、変わります。
それは、主人公にとって、幸せなことだったのでしょうか?
幸せでもありますが、不幸でもありました。
他者を好きになるという気持ちは良いことですが、自分の日常は壊れるわけです。
そして、思いが伝われば幸せですが、言葉が話せないので伝わりません。
さらに、演出が素晴らしいと思ったのは、二人が分かり合えないのは、主人公が言葉が話せないからなのか?ということを問うてくるところです。
もし主人公が言葉を話せるのなら、二人は分かりあえたのか?と。
言葉があれば他者とわかりあえる、というのは、ウソ、ですよね。
むしろ、言葉がない方が、分かり合えることもある。
事実、物語の最後では、二人は海の底へ一緒に幸せそうに消えていきます。
言葉は、他者がわかり合うためのツール、であるわけではないんですね。
この部分は、グレイテストショーマンやスリービルボードも同じようなことを表現しているように思います。
グレイテストショーマンは他者と分かり合えるツールとして音楽を利用しています。
スリービルボードは逆に、徹底的に言葉をぶつけ合うことで、人間同士の分かり合えなさと、それを通じた「赦し」をテーマにしています。
■最後のシーンは何を表現しているのかについて
本作は、視覚を使った人間観の変化と、言葉の不便性(機能不全性)について表現していました。
で、自分が一番わからなかったのが、最後のシーンです。
主人公と半魚人が海の底に沈んでいき、終わります。
これは一体何なのでしょうか。
メタ批評的になってしまいますが、これは、半魚人が南米からきた「アマゾン」であることから、Amazon、つまりアマゾンプライム=サブスクリプションサービス、という見立てが出来るのではないかと思います。
主人公が「映画」という媒体の比喩だとすると、この映画は、映画がアマゾンというサブスクリプションサービスと出逢い、その一見おどろおどろしいが魅力的な存在(サービス)に惹かれ、最後は結託しようとする、という話なのではないか、とも思えるのです。
つまり、映画というのはかなり斜陽産業化していて、この先どう生き延びていくのか、を考えた時に、映画館という箱の中だけで見てもらう媒体としてだけではきついので、動画配信サービスと提携してでも生き延びていきたい、という、かなり革新的な自意識を持っているのではないかと思ったのです。
一見ものすごく保守的な作風なのに、結論は革新的というか、時代を見据えているなあと思いました。
面白いのが、グレイテストショーマンで、グレイテストショーマンは最後、自分たちの思想を共有できるサーカス仲間だけで生き残っていこうとします。
これは、見方によっては、映画好きだけで映画を延命しようとしているわけで、具体的には映画を会員制にして、定額を払ってくれるお客さんにはサーカス(映画館)でショー(映画)を見せ、それ以外のお客さんにはサントラでマネタイズするという、客層を分化する発想がある感じがして面白いです。
スリービルボードはというと、こちらは保守的で、なんとか映画とお客さんが分かり合える方法を探しているものの、とりあえず現状維持、という結論になっています。
上記の見立ては、一方的な自分の妄想かもしれませんが、誰もそういう見方をしていないので、オリジナリティだけはあると思います(笑)。
そしてどの映画も1800円分以上の価値はありました。面白かったです。
グレイテストショーマンの感想
グレイテスト・ショーマンの感想
ネタバレ全開でいくぜ!
■あらすじ
サーカスを始めた男が栄光や挫折を経て最後はハッピー!な話
■感想
評判通り、表層上は音楽最高、ストーリー最低、で合ってる。
観客の「感動!」「音楽最高!」の紋切り型感想を聞いて、1,800円払ってそれだけならYoutubeでも見とけや!と思ったあなた、半分正解で半分間違い。
本作はYoutube=Googleと、ディズニーの批評映画なの。
ここからネタバレすっからー。
前提として本作は、映画を要素分解し、音楽と映像とキャラとストーリーのうち、音楽と映像に特化し、キャラとストーリーを捨てているので、ストーリーが最低なのは当然。
貧乏から金持ちに成り上がり、最後はお金じゃなくて仲間が大事!愛する人と結ばれる!とベタなストーリーなのは、意図的。キャラへの感情移入を避けるための仕掛け。
本作はGoogle的な比喩が連発される。
主人公のバーナムは自分を詐欺師・ペテン師と言うし、冒頭意訳すると「このショーは何も考えず偏差値下げて観てください」と宣言するし、登場人物の内面も細かい描写はカットでざっくりまとめだけで、音楽中心、メッセージはざっくり、「ありのままでいい」=現状追認!な感じ。
これは、Google、Youtube(何も考えず見れますよー)の比喩。
バーナムが「人々はゾッとするものを求める」とマイノリティを集めサーカスショーを行うのは、人間が何も考えずに自分はこのままでいいと現状追認するためにはマイノリティショーとしての他人の物語か自分が輝く物語が必要だから。この場合のサーカスは、ローマ時代の「パンとサーカス」、愚民大衆を誤魔化す娯楽の意で、後者の自分の物語というのが、バーナム自身であり、かつ観賞者自身つまり俺ら。
もっというと、映画という「他人の物語」の観賞に集中できないなら、「This is me」(これって自分のことだ!)という「自分の物語」として映像をエンタメ化・自分ゴト化すれば愚民大衆でも映画見るでしょ?そのためには登場人物の内面カット!自分ゴト化(バーナム効果)発動!なの。
バーナム効果は心理学を応用した詐欺・ペテンのこと。
要はおすすめのYoutube無料動画をレコメンドされるのと、自分ゴト化できる壮大な音楽付きの有料映画を比較したとき、後者の方が快楽のコスパがいいよ、という批評性を持つ映画。で、無意識的に後者を支持する一定層がいたからヒットした。
「ありのままでいい」の歌詞は、アナ雪=ディズニー批評だね。アナ雪では「ありのまま」だと他者と折り合いがつかないから、最後妥協するし、次作のズートピアではアナ雪批判、自己反省を行い、虚構=他人の物語への感情移入としての作品へ回帰させたのに、本作は開き直ってありのまま全面肯定している。
でも愚民大衆はそちらを支持した、それでいいのだ、と。
Googleの自分の物語志向とディズニーの他人の物語志向の間を取り、一見他人の物語を介しているように見せて実は自分の物語に没入できるというアクロバティックな手法を取った、そしてその思惑が、現実化した。計算通りだね。
そんな映画には騙されない!という批評的視点を持った人すらバカにし、批評家、批評的視点をも巻き込んでいく。
本作で「本物」と「偽物」、「夢」と「現実」の言葉が連発される。
全ては偽物だから、批評する価値などない、でもベースは史実(本物)だと。夢物語であるようだが、実際にヒットした現実があると。
最も崇高な芸術とは、人を幸せにすることであり、映画としての完成度(上手いか下手か)ではなく、それを見て笑顔になれるか(好きか嫌いか)だと。
映画は21世紀には一部の知的エリートの教養として消費されて終わる。19世紀の大衆小説が20世紀にそうだったように。としたり顔でいう評論家に、そんな偏差値の高い芸術品としての映画ではなく、愚民大衆に愚民と言ってもいいから、アカデミー賞獲れなくていいから、感動を最大化させてやる、と割りきった作品。
過去映画のオマージュが一切ないのも、自分ゴト化の阻害要因を徹底排除するため。
このシーンがこの映画のパロディ、という他人の物語が入る隙を潰し、感動し易い回路(=自分の物語)への没入に特化。
監督の本音は、ラストシーンに出ていると思う。
映画の在り方は愚民大衆の自分ゴト化のネタでいい、とは思ってない。
最後残った仲間は、映画好きというマイノリティの比喩で、彼らだけでサーカスという名の映画館を維持させる、つまり最終的にはお金を出し合って映画を延命させると。具体的にはサブスクリプションサービス(課金制)。
自分の物語にしか興味がない愚民大衆は「ありのまま」=現状追認でいいけど、映画好きは金出して映画見てよ、俺も映画作る、という監督の意志を感じた。
映画ルームの評論
映画『ルーム』を観た
■あらすじ
閉じ込められた「部屋」から脱出した母と息子の話
■感想
以下、人によってはネタバレだから注意。
ネットで自称評論家の評論を漁ったんだけど、当たり前すぎる見立てにも言及できてなくてショック。
評論するなら最低限読み取ろう!(一般の方は「感動した」の感想でも仕方ないけど)
主人公の息子は明らかに「Google」のメタファー。
「はじめまして、【世界】」というコピーでわかるように、この映画を一言で言うと、「脱出前の狭い【世界】=映像(映画)の世界=20世紀、とのサヨナラと、脱出後の広い世界=現実=Googleによって情報化された世界=21世紀との出逢い(はじめまして)」。
冒頭に5歳になった主人公が色々なものを「おはよう、●●」と名前を呼ぶのは、人間=はじめに言葉ありき(モノありきではない)=モノを名詞化してモノを認識できる、というミシェルフーコー的認識論で、Google=モノを名詞化=情報化つまり名前付けで情報化し世界を認識する、ということを表現。
監禁部屋で「本当みたいなものは本当にある」の台詞と、TV観賞シーンは、現実と虚構の境界とは何か?という問いで、結論は、脱出前は「映像でも部屋の中にあれば本当、部屋の外にあるのはウソ」だったのが、脱出後は「情報化されてないものはウソ(現実にないものとして認識)、情報化されれば現実(リアル)」というGoogle的リアリズムを表現。
極論すると、Google的世界観では、情報化できてしまえばそれがリアルか虚構かは関係ないということ。
主人公はGoogle的な特性を持っている。例えば監禁部屋のロックは暗証番号キーのロック、高熱を出したふりはPCがオーバーワークして熱を持ってしまう状態、脱出後に婦人警官が主人公に的確な質問をしないと的確な答えが帰ってこないのは音声検索(Siri)の比喩、カーチェイスから道順逆算は位置情報検索(Google Map)、見えない菌はコンピュータウイルス、サングラスはGoogleグラス、人見知りでママを通して他者と会話するのはGoogle翻訳、「みんなって誰」という問いかけの「みんな」=集合知、「急ぎ過ぎ、急かさないで」というセリフはネットの回線速度、スマホでしか遊びたがらないのは自身がスマホだから。
脱出前の世界=不幸、脱出後の世界=幸福、という単純化を避けるのも面白い。
主人公は脱出後も時折「部屋に帰ろう」と弱音を吐く。脱出後の外の世界が無条件で素晴らしいものだとは描写されない。
最初は見たものを全て情報化し、とりあえず何でも試そう、と、情報化の快楽に溺れていたが、次々と新しいものに出会う恐怖や不安に直面したり、全てを情報化するのに疲れる。
でも、AI育成ゲーム的に進化していき、最後は監禁部屋に戻り、「部屋縮んだの?」と言いながら、アイテムを名詞で呼び「サヨナラ」する。
Googleにとっては、名詞化=情報化し取り込んだものは矮小な過去でしかなく、‘世界’とは現時点で情報化できている現実だ、という結論で終わる。素晴らしい。
■評論とまとめ
評論家なら最低限ここまでは必須。ここからが評論。
監禁部屋に出てくる、食べ物を食べるネズミは、食べ物という現実を食い散らかすディズニー(ネズミ=ミッキー)という虚構、つまり仮想敵であり競合、を排除したいという比喩。同じシーンを「インサイドヘッド」でディズニー自身が描写。
主人公が母親の感情をわからないシーンがあり、ここは、Googleもまだ人間の感情は情報化できていないという描写。
登場人物の成人男性=google的、無感情的で、 女性=人間的、感情的と描写しており、主人公は男の子だが子供かつ髪が長いので男性と女性の境界として描写。
本作はGoogleに留まらず、映画そのものについて自己言及している。
監禁された部屋というのは、映像の世紀=20世紀の比喩だが、映画(観賞)という行為そのものであると見立てている。
そして外の世界とは、映画=映像=20世紀を超えた、現実そのもの=Google=21世紀であり、現実こそが映画・エンタメだと。その究極形はYoutube。(日本では他人の現実観賞装置という意味で「アイドル」)。
ジェンダー的視点でも、監禁部屋は男尊女卑的世界、外の世界は女性活躍(婦人警官)世界、と描写。
最後に、本作は「人と人を繋げるもの」=Google、とまとめられる。でも、その母と息子のべったりした「気持ち悪さ」まで描かないとダメ。今世界で起きているのは、人と人が繋がれる素晴らしさや幸福ではなく、繋がりすぎるストレスや不幸だから。
それを描いたZガンダムや伝説巨神イデオンは革新的だったという、最後は80年代の日本のアニメ・富野由悠季の先見性を再認識した。
R-1グランプリの感想
広告的視点から見たスリービルボード評論
スリービルボード評論
本作が「ビルボード」という屋外広告をタイトルに入れていることから、広告の歴史の総括としても論じることができるのだが、評論サイトでは本作を広告的な視点からまとめた論評がなかったため、筆を執ることにした。
ただし、オブラートに包んではいるものの、ネタバレ必至であることをご了承ください。
■二転三転するキャラクター像
この映画の魅力は何と言ってもキャラクターの良い面と悪い面が両方出てくるところ。主人公はビルボードにセンセーショナルな広告を掲載すれば世間に注目され、犯人逮捕に近づけるかもしれないと考えた。これは完全に「ポピュリズム」という手段。
しかしこのポピュリズムというのはたちの悪い選択肢というか、あまり建設的ではないものとして描かれる。個人を批判するメッセージだし、このメッセージを送られる個人もこの広告とは全く関係ない形ではあるが、この世を去ることになるからだ。
現実でも、ポピュリズムというのはあまり芳しくない結果をもたらしている。
日本国内の政治に目を向けると、小池百合子がマスメディアを利用したポピュリズムに失敗したし、Twitterによる動員の革命(津田大介)もいじめ文化に加担し失敗した。
主人公以外のキャラクターも、悪いやつかと思いきや良いやつだったりする。
警察官が犯人逮捕にそこまで積極的に捜査しないという悪いやつかと思いきや、余命数ヶ月という一面、優しい人間である一面を見せたり、マザコンでいきがっている警察官も実はハートウォーミングな音楽が好きな一面があったり。登場人物全てが、二面性を持っているという描写になっている。
■人間とは見たいものしか見ないもの
主人公の娘が失踪する前、自分よりも別れた夫(父親)の方に好感を持っていた事実を夫から聞かされるが、主人公はその事実から目を背けようとし、聞きたくないと拒絶する。人間は、見たいものしか見ない、聞きたいことしか聞きたくない、(だから広告というのは大変だ)ということを示している。
■広告とは「言い換え」でしかないということ
黒人を有色人種と言い換えたり、「〇〇の言い換え」というセリフが何回か出てくる。これも、広告とは表現の言い換えであることを伝えている。
■広告の各役割の伝達
本作ではオールドメディアが意図的にそれぞれの明確な役割を与えられ、その効果を発揮している。テレビ・ラジオは大衆を扇動、新聞はホワイトカラーの適切な情報収集、手紙(DM)は個人に深く刺さるプライベートなメッセージ、として、意図的に描写している。
■メッセージが意図通りに伝わらないものとしての広告
主人公がビルボードに広告掲載する理由は、犯人逮捕なのだが、広告で攻撃している相手が犯人ではないところ、メッセージを伝えるターゲット設定を間違えているところが、いかに広告というのがターゲットが重要なのかを示している。また、犯人(敵)がどこにいるのかわからない、という状況や、その敵の不在性というものが、ポストモダン的な状況であることも描写していると思われる。
■オールドメディアの総括に留まっており、ネット以降のメディア論、人間観が描写されていない
本作では、ネット以降のメディア観、人間観が無視されている。オールドメディアは人間中心のプランニングに戸惑い四苦八苦してようやっと広告投下出来たと思ったら炎上とかして大変だった、というのが大きなまとめだが、ネット以降は、ソーシャルやスマホがあれば正確にターゲティングできるし最適化した広告投下できるので、そのネットを用いたメディア論を展開してほしいと思った。
また、ネット以降の人間観の更新も必要だ。人間は意識の高い人間と意識の低い動物に二分され、前者が新聞・雑誌、後者がテレビ・ラジオというメディアが最適媒体と考えられてきたが、ネットは、そのどちらでもない中動態に該当する。つまり、意識の高い状態の人間には検索させる広告が有効だし、意識の低い状態の人間には動画を見せる広告が有効だ。ネットの登場で、人間は意識の高い「人間」と、意識の低い「動物」に二分される、という人間二分論ではなく、人間は意識の高い「状態」、意識の低い「状態」があるだけで、それは同じ人間の中に同居するもの、なぜなら24時間ずっと意識の高い人間も意識の低い人間もいないからだ、という人間観の更新があったからだ。つまり人間とは意識の高低があり、それはある一定の情報環境下に置かれることで発生するものであり、それはコントロールできるもの(それを環境設定だったりアーキテクチャと呼んだりする)だということ。映画だって薄暗い大きな箱の中で見るのと家でスマホ画面で見るので違うように、環境・状況によってコントロールされるものであり、人間の意識・行動はある程度操作可能なのだというのが21世紀の人間観だ。(それが悪用されるとゲーテッドコミュニティのような階級社会問題に発展するがそれは別の話になるので割愛する)
■人間の意識・行動のコントロールの仕方はネットで既に活用されている
本作では「怒りは怒りを買う」というセリフ、怒りに釣られて悪事を働くシーンがあるが、この「釣り」という概念こそネットでフル活用されており、PV稼ぎに使われている。そして、この「釣り」は、ある人間は反応し、ある人間は反応しない、というよりも、その人間がどのような状態・状況なのかによって釣られる確率が変わるという、環境コントロールによってもたらされるものだ。ここから、ネットでは人間をコントロールし誘導するノウハウが活用されているのと、それは人間というより状況のコントロールによって行われているということがわかる。
■最後に
本作は田舎のアナログな広告掲載が舞台となっているが、これを、都会のビルボード(デジタルサイネージ)を舞台にするとどうなるのか、というのを続編でやってほしいなと思った。