シェイプオブウォーターの感想

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シェイプオブウォーターの感想。
最初に断わっておきますね。ネタバレ全開です。しかも説明にどうしてもグレイテストショーマンとスリービルボードという補助線、対立軸を持ってきたいので、途中からネタバレします。すいません。

■あらすじ
言葉を話せない女性が半魚人と恋に落ちる話。

■感想、の前に政治批判に関して 
この映画がアカデミー作品賞を受賞したのは、障害者や黒人などのマイノリティを取り上げ、トランプ批判したから、という意見が多いんですけど、それはグレイテストショーマンもスリービルボードも同じだから、それが理由ではないと思うことを指摘しておきたいです。 
グレイテストショーマンもサーカスにマイノリティの人たちを起用しますし、スリービルボードも黒人が出てくるのと映画の舞台となっているミズーリ州はアメリカの選挙戦の肝となる場所でトランプ批判を暗喩しているので、政治的言及がシェイプオブウォーターだけなされてたから受賞したというのはファクトレベルで間違いですね。

■感想
では、本題に入ります。
この作品は政治ではなく文学、文芸作品として評価された、と思うのですよ。 
自分が感じたポイントは2点です。
1つは、視覚(死角)の問題。2つ目は、言葉の問題。

まずは1つ目から。 
映画というのは視覚を操作するエンタメという側面があり、それが一番出来ていたのが本作です。 
見ていて薄々気づいているとは思うんですけど、主人公の女性は、決して美人ではないですよね。そして半魚人も、ブサイクです。むしろ敵役の男性の方がハンサムです。
でも物語の後半になると、主人公がすごく美人に、半魚人がイケメンに見えてきますよね。 
(もちろん演技力や演出力もありますが。) 
人間は見た目ではない、内面なのだ、と、言葉にしたら陳腐な戯言も、映画という視覚メディアで表現すると、説得力が増すわけです。 
スリービルボードも、人間の二面性、見た目は悪そうな性格だけど意外と良い一面もある、という内面の二重構造を描写していて良かったんですけど、内面描写による人間の変化は、小説などの文字媒体でも出来るわけです。
映像という、視覚媒体で出来ること、ということに関しては、見た目がブサイクから美人に見える本作の方が、媒体特性を活かしきったと言えます。 
ちなみにグレイテストショーマンは、イケメンはイケメン、美女は美女というわかりやすさで勝負していた映画でした。

2つ目、言葉の問題。 
映画というのはトーキー映画以降言葉を操作するエンタメである側面もあり、この点でも本作は興味深かったです。 
自分が涙したのは、主人公が半魚人に愛の気持ちを伝えたいのに、障害で言葉が話せず、もどかしくてモゴモゴして、脳内で独りミュージカルを演奏して終わるところです。 
主人公が言葉を話せないことを自分で嫌だと思ったり不自由だと感じるのは、半魚人に出会って以降なんですね。 
それまでは、ゲイの画家と同棲し、働いて飯食ってテレビ見てお風呂でオナニーをして寝るという生活の繰り返しで、でもそれがすごく幸せそうに描かれます。
そんな生活が、逆に、半魚人という他者に出逢うことで、変わります。
それは、主人公にとって、幸せなことだったのでしょうか?
幸せでもありますが、不幸でもありました。
他者を好きになるという気持ちは良いことですが、自分の日常は壊れるわけです。
そして、思いが伝われば幸せですが、言葉が話せないので伝わりません。
さらに、演出が素晴らしいと思ったのは、二人が分かり合えないのは、主人公が言葉が話せないからなのか?ということを問うてくるところです。
もし主人公が言葉を話せるのなら、二人は分かりあえたのか?と。
言葉があれば他者とわかりあえる、というのは、ウソ、ですよね。
むしろ、言葉がない方が、分かり合えることもある。
事実、物語の最後では、二人は海の底へ一緒に幸せそうに消えていきます。
言葉は、他者がわかり合うためのツール、であるわけではないんですね。 
この部分は、グレイテストショーマンやスリービルボードも同じようなことを表現しているように思います。
グレイテストショーマンは他者と分かり合えるツールとして音楽を利用しています。
スリービルボードは逆に、徹底的に言葉をぶつけ合うことで、人間同士の分かり合えなさと、それを通じた「赦し」をテーマにしています。

■最後のシーンは何を表現しているのかについて
本作は、視覚を使った人間観の変化と、言葉の不便性(機能不全性)について表現していました。
で、自分が一番わからなかったのが、最後のシーンです。
主人公と半魚人が海の底に沈んでいき、終わります。
これは一体何なのでしょうか。
メタ批評的になってしまいますが、これは、半魚人が南米からきた「アマゾン」であることから、Amazon、つまりアマゾンプライムサブスクリプションサービス、という見立てが出来るのではないかと思います。 
主人公が「映画」という媒体の比喩だとすると、この映画は、映画がアマゾンというサブスクリプションサービスと出逢い、その一見おどろおどろしいが魅力的な存在(サービス)に惹かれ、最後は結託しようとする、という話なのではないか、とも思えるのです。
つまり、映画というのはかなり斜陽産業化していて、この先どう生き延びていくのか、を考えた時に、映画館という箱の中だけで見てもらう媒体としてだけではきついので、動画配信サービスと提携してでも生き延びていきたい、という、かなり革新的な自意識を持っているのではないかと思ったのです。
一見ものすごく保守的な作風なのに、結論は革新的というか、時代を見据えているなあと思いました。
面白いのが、グレイテストショーマンで、グレイテストショーマンは最後、自分たちの思想を共有できるサーカス仲間だけで生き残っていこうとします。
これは、見方によっては、映画好きだけで映画を延命しようとしているわけで、具体的には映画を会員制にして、定額を払ってくれるお客さんにはサーカス(映画館)でショー(映画)を見せ、それ以外のお客さんにはサントラでマネタイズするという、客層を分化する発想がある感じがして面白いです。
スリービルボードはというと、こちらは保守的で、なんとか映画とお客さんが分かり合える方法を探しているものの、とりあえず現状維持、という結論になっています。

上記の見立ては、一方的な自分の妄想かもしれませんが、誰もそういう見方をしていないので、オリジナリティだけはあると思います(笑)。
そしてどの映画も1800円分以上の価値はありました。面白かったです。