広告的視点から見たスリービルボード評論

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スリービルボード評論

本作が「ビルボード」という屋外広告をタイトルに入れていることから、広告の歴史の総括としても論じることができるのだが、評論サイトでは本作を広告的な視点からまとめた論評がなかったため、筆を執ることにした。

ただし、オブラートに包んではいるものの、ネタバレ必至であることをご了承ください。

 

■二転三転するキャラクター像

この映画の魅力は何と言ってもキャラクターの良い面と悪い面が両方出てくるところ。主人公はビルボードにセンセーショナルな広告を掲載すれば世間に注目され、犯人逮捕に近づけるかもしれないと考えた。これは完全に「ポピュリズム」という手段。

しかしこのポピュリズムというのはたちの悪い選択肢というか、あまり建設的ではないものとして描かれる。個人を批判するメッセージだし、このメッセージを送られる個人もこの広告とは全く関係ない形ではあるが、この世を去ることになるからだ。

現実でも、ポピュリズムというのはあまり芳しくない結果をもたらしている。

日本国内の政治に目を向けると、小池百合子がマスメディアを利用したポピュリズムに失敗したし、Twitterによる動員の革命(津田大介)もいじめ文化に加担し失敗した。

主人公以外のキャラクターも、悪いやつかと思いきや良いやつだったりする。

警察官が犯人逮捕にそこまで積極的に捜査しないという悪いやつかと思いきや、余命数ヶ月という一面、優しい人間である一面を見せたり、マザコンでいきがっている警察官も実はハートウォーミングな音楽が好きな一面があったり。登場人物全てが、二面性を持っているという描写になっている。

■人間とは見たいものしか見ないもの

主人公の娘が失踪する前、自分よりも別れた夫(父親)の方に好感を持っていた事実を夫から聞かされるが、主人公はその事実から目を背けようとし、聞きたくないと拒絶する。人間は、見たいものしか見ない、聞きたいことしか聞きたくない、(だから広告というのは大変だ)ということを示している。

■広告とは「言い換え」でしかないということ

黒人を有色人種と言い換えたり、「〇〇の言い換え」というセリフが何回か出てくる。これも、広告とは表現の言い換えであることを伝えている。

■広告の各役割の伝達

本作ではオールドメディアが意図的にそれぞれの明確な役割を与えられ、その効果を発揮している。テレビ・ラジオは大衆を扇動、新聞はホワイトカラーの適切な情報収集、手紙(DM)は個人に深く刺さるプライベートなメッセージ、として、意図的に描写している。

■メッセージが意図通りに伝わらないものとしての広告

主人公がビルボードに広告掲載する理由は、犯人逮捕なのだが、広告で攻撃している相手が犯人ではないところ、メッセージを伝えるターゲット設定を間違えているところが、いかに広告というのがターゲットが重要なのかを示している。また、犯人(敵)がどこにいるのかわからない、という状況や、その敵の不在性というものが、ポストモダン的な状況であることも描写していると思われる。

■オールドメディアの総括に留まっており、ネット以降のメディア論、人間観が描写されていない

本作では、ネット以降のメディア観、人間観が無視されている。オールドメディアは人間中心のプランニングに戸惑い四苦八苦してようやっと広告投下出来たと思ったら炎上とかして大変だった、というのが大きなまとめだが、ネット以降は、ソーシャルやスマホがあれば正確にターゲティングできるし最適化した広告投下できるので、そのネットを用いたメディア論を展開してほしいと思った。

また、ネット以降の人間観の更新も必要だ。人間は意識の高い人間と意識の低い動物に二分され、前者が新聞・雑誌、後者がテレビ・ラジオというメディアが最適媒体と考えられてきたが、ネットは、そのどちらでもない中動態に該当する。つまり、意識の高い状態の人間には検索させる広告が有効だし、意識の低い状態の人間には動画を見せる広告が有効だ。ネットの登場で、人間は意識の高い「人間」と、意識の低い「動物」に二分される、という人間二分論ではなく、人間は意識の高い「状態」、意識の低い「状態」があるだけで、それは同じ人間の中に同居するもの、なぜなら24時間ずっと意識の高い人間も意識の低い人間もいないからだ、という人間観の更新があったからだ。つまり人間とは意識の高低があり、それはある一定の情報環境下に置かれることで発生するものであり、それはコントロールできるもの(それを環境設定だったりアーキテクチャと呼んだりする)だということ。映画だって薄暗い大きな箱の中で見るのと家でスマホ画面で見るので違うように、環境・状況によってコントロールされるものであり、人間の意識・行動はある程度操作可能なのだというのが21世紀の人間観だ。(それが悪用されるとゲーテッドコミュニティのような階級社会問題に発展するがそれは別の話になるので割愛する)

■人間の意識・行動のコントロールの仕方はネットで既に活用されている

本作では「怒りは怒りを買う」というセリフ、怒りに釣られて悪事を働くシーンがあるが、この「釣り」という概念こそネットでフル活用されており、PV稼ぎに使われている。そして、この「釣り」は、ある人間は反応し、ある人間は反応しない、というよりも、その人間がどのような状態・状況なのかによって釣られる確率が変わるという、環境コントロールによってもたらされるものだ。ここから、ネットでは人間をコントロールし誘導するノウハウが活用されているのと、それは人間というより状況のコントロールによって行われているということがわかる。

■最後に

本作は田舎のアナログな広告掲載が舞台となっているが、これを、都会のビルボードデジタルサイネージ)を舞台にするとどうなるのか、というのを続編でやってほしいなと思った。