仮面ライダーアマゾンズ THE MOVIE 最後ノ審判の感想
仮面ライダーアマゾンズ THE MOVIE 最後ノ審判の感想です。
基本的に、Amazonプライム・ビデオで鑑賞できる仮面ライダーアマゾンズのseason1、2の続編なので、それを観ている前提で感想を書きます。
■あらすじ
アマゾン駆除班に追い詰められた主人公が何とか逃げ延び、隔離施設で保護されるが、その保護施設の正体が暴かれた時、再び戦いが始まる。
■感想
一言で言うと、社会派ホラースプラッター映画ですね。
ジャンル横断しすぎですが、ヒーロー映画というカテゴリーで語れるかというと、そうではありませんね。
もともと平成初期の仮面ライダーシリーズのアギト、龍騎、555の3部作は、テレ朝の白倉伸一郎プロデューサーと小林靖子さんのタッグで作られた、アメリカンサイコサスペンスの手法を特撮に取り入れた作品で、特に龍騎は9.11のアメリカ同時多発テロ以降の、正義とは何かを突き詰めた作品で、ダークナイトの前身とも言えるですが、今回も白倉・小林ペア健在で、その作風が色濃く反映されていました。なので、外れることはあり得ないので安心して拝見出来ました。
テーマ的にも、ここまで正義が相対化された現代でガチにヒーローを描写するとこうなります、という徹底的な思考実験がされていて、最初から最後まで絶望しかなかったですね。
なぜ生きなければいけないのかという実存の問題、カニバリズム、食料自給率、組織論と、正義を語る上で議題がやや多めですが、アクションシーンがメチャクチャカッコいいので飽きません。
中学生以下の方と、心臓の弱い方にはあまりオススメできませんが、こういう万人ウケを捨てた尖った表現はやはり面白いですね。
お客さんもほぼ30代後半以降の男性のみで、ファミリーで観に行くと子供が泣くやつなので注意してください。
ということで、映画に登場した個別の議題に沿って語っていきたいと思います。
テーマの一つに、カニバリズム(共喰い)問題があります。
人間は、アマゾン細胞を移植された人間を畜産物として食べていいのかという問題です。
シーズン1・2では、アマゾン細胞を移植された人間(アマゾン)は、いつかは人間を食糧として生きる、人間にとっての敵になる、という設定でしたが、劇場版では、アマゾン細胞を移植されても人間を襲うどころか、むしろ喜んで人間の食糧として、餌として自分を捧げる、従順な存在にコントロール可能になった存在として描かれます。
そこに対し、主人公は怒りを覚えるわけです。
命を積極的に捧げる存在なんて、生物として間違っている、と。
ここに関しては、いくらアマゾンとはいえ、もともと人間であった存在を、人間が食らうのは、タブーである、というカニバリズムの問題を孕んでいると思います。
人間は、人間以外の生命を喰らって生きています。
もちろんその中には、昨今のヴィーガン問題のように、植物はセーフ、動物はアウトという派閥があったりもしますが、いずれにせよ人間は食糧対象ではありません。
では、アマゾン細胞を移植された人間は、人間なのか?あるいは、人間ならざるもの(食糧対象)なのか?という問いがあります。
この問題は、よく出てくる豚の畜産の話に似ています。
日本人の小学生が、畜産用の豚を飼育している農場に何日か泊まり込み、共同生活をしていくうちに、豚に感情移入してしまい、最終日に畜産物として処理される様子を見て号泣する子供達。
ドキュメンタリー番組で、スタジオのモニターも号泣していました。
が、これを見たアメリカ人は、爆笑するのです。
なぜ人間に食べられるために生まれてきた動物が食糧になるのを見て泣くのか?クレイジーだと。お笑いだと。
ここに、日米のモノの見方の違いが表出しています。
アメリカ人は、最初に食糧対象か否かを定義したら、完全に割り切るのです。
対して日本人は、割り切れません。
これは、正義と悪の問題にも繋がります。
最初に正義と悪を定義したのであればそれを明確に分けるのがアメリカ、分けられないのが日本です。
だからこそ、ダークナイトの正義と悪の再定義を描写した映画は、日本人は面白いと思い、アメリカ人には衝撃的だったのです。
そのダークナイト問題を、仮面ライダー龍騎で描写した白倉伸一郎・小林靖子のタッグが今作でも正義と悪の問題を少しズラしながらもガッツリとぶっ込んできているのが面白いです。
■生きることとは
上記に絡むことですが、主人公は、自分のために生きずに他人のために生きるなんて間違っている、と訴えます。
イスラム教のジハード批判のようにも聞こえますが、これは昨今のサービス残業問題やブラック企業問題も孕んでいるのだと思います。
組織のために、他人のために生きるのは、間違っている。
最終的にそうなることは素晴らしいが、まず、自分のために生きる。
自分の人生を全うに充実して生きられないのに他人に奉仕するなんて間違っていると。
エゴのようにも聞こえますが、むしろエゴになれ、そうしないと死ぬぞ、人生はサバイバルだ、生き残るためには自分を大事にできないとダメだ、というメッセージなのです。
そしてこれを訴えている主人公がアマゾンをなるべく殺したくないと考えているのも面白いです。
■組織論
本作では、生きるための処世術として、様々な態度が散見されます。
組織に忠実に命令を実行する者、左遷され復活を目指す者、組織から外れ一人で行動するもの。
それぞれが生き残りをかけて戦います。
そしてその全てが、どれが良い悪いではなく、フェアに相対的に描かれます。
組織に属すればいいのか、独立すれば良いのか、それ自体の考え方と行動が、生き残るための分岐点となります。
■圧倒的にカッコいいアクション
暗いシーンの連続ですが、それを引き裂くかのように、アクションシーンは圧倒的にカッコいいです。
衣装もそうですし、動きも洗練されています。
民放の仮面ライダーはマーチャンダイジング型モデル、つまり玩具の販促を目的に番組制作をしているので、道具はカッコ良く描くのですが、仮面ライダーアマゾンズは、パッケージ型モデル、つまり映像自体を売るので、より一層カッコ良くなっています。
■テーマである、食うことについて
最後に、テーマについて語っておきたいと思います。
今作は、食うこと、がテーマですが、カニバリズムの問題以外にも、もう一段上の、侵食というものがテーマとなっていることがわかります。
1つは、ベタ的な意味において、人間が人間を喰らう存在としての侵食。
人間がアマゾンを喰らうだけでなく、主人公でさえも人間(アマゾン)を喰らってしまったこと、主人公の相方でありライバルである仁が人間(アマゾン)を殺してしまったこと。
主人公たちがお互いのタブーを犯したのです。
そしてメタ的な意味では、本作がAmazonプライム・ビデオというネット動画配信プラットフォームから、映画という媒体への侵食。
仮面ライダーシリーズは、民放から映画という流れはありましたが、ネットから映画というのは初めてで、その意味でも他媒体への侵食という意味もあると思います。
色々な意味において、生きるために、それぞれがそれぞれを侵食し、喰らうのです。
非常に面白かったです。