きっと、うまくいく の感想

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『きっと、うまくいく』を今更!ながら鑑賞したので、感想。

すいません、ニワカ映画評論家で。

これ観てなかったら映画語る資格なしですよね。猛省です。

これ、2009年公開って、アナ雪よりだいぶ前ですけど、アナ雪先取りしてますね。

95%面白くて同意ですが、一方でアジアだからこそ、逆に欧米よりポリティカルコレクトネスに鈍感だったりする部分や、最後のシーンで腑に落ちない部分もあったので、そこらへんを書いていきます。

ネタバレ全開です。

 


■あらすじ

大学時代の仲のいい3人のうち1人がある日消息不明になり、その10年後、その1人が現れたとの連絡があり、再会しに行く過程で、大学時代を振り返って行く話。

 


■感想

これは大ヒットしますよね。

まず、日本のポップカルチャーシーンでもそうでしたが、ゼロ年代の映像コンテンツは異性から同性へという流れがあり、そして学園モノが流行りヒットした時代です。

異性との恋愛より、同性同士で部活のノリでワチャワチャしてる方が楽しい、そして世代間で共通体験が無くなる中、誰しもが学校は行ったことがある、という学園生活を最大公約数的に描写することで、自分ゴト化させる手法です。

本作も、3人の楽しそうな様子が全開で、このノリが作品の面白さの前提として機能しています。

 


■ランチョー=Google

そしてその3人の中でも天才青年の、ランチョー君。

彼はGoogleの比喩ですよね。

インプットしたことをすぐアウトプット出来ます。

教育とは訓練ではない、強制的にやらされるものではなく自発的にやりたくなるもの、自然と知識が増えていくもの、だと。

これは、Googleの社是にも通じます。

「organize the world's information and make it universally accessible and useful」、日本語だと「世界の情報を有機的に組織化して、それをいつでもどこでも使えるようにする」という意味です。

情報を使いたい時にすぐに使えるように、知識を持ち、共有しておく。

そして、自発的にやりたいときにやる。

これは、昨今流行りのマインドフルネスという概念にも通じます。

何気ない日常を幸福に感じること、そのために世界を情報化することで、この世界が素晴らしいものとなり、歴史や文化を知りたくなる。

私にとっては、食べログがそうですし、ジョンハンケの作ったPokémon GOも同じ思想です。

 


興味深いのは、このGoogle的思想は、アップル=スティーブ・ジョブズも禅の思想から学んでいることです。

そしてこれらのGoogle・アップル=スティーブ・ジョブズ的思想は、アメリカ西海岸的なものというより、東洋思想的なものなわけで、まさにインド哲学なわけです。

 


インド哲学(東洋思想)

物語の中盤で、オールイズウエル、うまくいくんだ、という歌を歌いながら踊るシーンがあります。

これは、コミュニケーションというのを言語と非言語に分けた時、西洋哲学では言語=人間的なもの、意思を伝えやすい手段であり、非言語=動物的なもの、意思を伝えにくいものである、だから真理を知るには言語を使え、としたわけですが、東洋思想では、非言語的なものこそが最も真理に近いとされてきたわけです。

ナーガールジュナしかり、日本の般若心経しかり、最後は喋るんじゃねえ!踊れ!歌え!ですからね。笑

身体言語なんですよね、東洋思想は。

それをしっかりわかってるなぁ、と、中盤の踊りを観て感じました。

考えるな、感じろ、ですね。

 


■アナ雪との関連

勝手な想像ですが、Google、アップルが非言語領域の可能性に気づいた、というか、グローバリゼーションとは世界60億人を相手に商売することなわけで、そしたら言語に頼っている場合ではない、と切り替えたように、ディズニーもこのミュージカル的コミュニケーションの可能性に気づいたから、応援上映的なビジネスに着手したのかなと思います。

そしてその補助線としては本作が欠かせないことが分かって良かったです。

 


■物語展開のリズムについて

わりと楽観的な話が進む中、突如自殺シーンや出産シーンなど、展開がガラッと変わる印象です。

仮説ですが、これも、人間は何分ごとに感情を切り替えると心地いい、というマーケティングがされているような気がします。

何か、シーンの切り替えに、リズムを感じました。

それも、メッセージを言葉で伝えるというより、リズム感で伝えようとする現れなのかなと思いました。

 


■ポリティカルコレクトネスについて

今ディズニーは、西洋人だけ活躍させるコンテンツでは世界中にヒットさせることが不可能だと理解しているので、アジア人、黒人、女性といったマイノリティを必ず活躍させます。

一方で、インド映画はインド人向けにヒットすればいいからなのですが、物語上インド人の、男性しか活躍しません。

もっというと、チート能力をもったランチョーしか活躍しません。

2018年現在だと、少なくともインド人女性を活躍させないと、リベラルから反発を食らうような気がしました。

 


■全ては成功のため?

ランチョーのチート能力に絡むことですが、ランチョーの主張としては、やりたくないことを強制的にやらせるより、自発的に好きなことをやればいい、ということなのですが、気になったのは、そうすることで、成功するから、という最後の一言です。

結局は、成功が目的なのか?と。

マインドフルネスではないのか?成功なのか?と。

まだ2009年公開時ですし、インドの国力を増強する目的でインテリたちが集う大学がテーマだからなのかもしれませんが、成功、つまりお金を稼ぐことに何の意味があるのか?という問いも突き詰めて欲しかったです。

結局それをしていて楽しいからするわけで、目的と手段が一致している状態をマインドフルネスと定義できる、と私は思うのですが、そこは、語られていなかったので、補足してほしかったですかね。

 


でも全体的な感想ては、面白かったです。

仮面ライダーアマゾンズ THE MOVIE 最後ノ審判の感想

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仮面ライダーアマゾンズ THE MOVIE 最後ノ審判の感想です。

基本的に、Amazonプライム・ビデオで鑑賞できる仮面ライダーアマゾンズのseason1、2の続編なので、それを観ている前提で感想を書きます。

 


■あらすじ

アマゾン駆除班に追い詰められた主人公が何とか逃げ延び、隔離施設で保護されるが、その保護施設の正体が暴かれた時、再び戦いが始まる。

 


■感想

一言で言うと、社会派ホラースプラッター映画ですね。

ジャンル横断しすぎですが、ヒーロー映画というカテゴリーで語れるかというと、そうではありませんね。

もともと平成初期の仮面ライダーシリーズのアギト、龍騎、555の3部作は、テレ朝の白倉伸一郎プロデューサーと小林靖子さんのタッグで作られた、アメリカンサイコサスペンスの手法を特撮に取り入れた作品で、特に龍騎は9.11のアメリカ同時多発テロ以降の、正義とは何かを突き詰めた作品で、ダークナイトの前身とも言えるですが、今回も白倉・小林ペア健在で、その作風が色濃く反映されていました。なので、外れることはあり得ないので安心して拝見出来ました。

 


テーマ的にも、ここまで正義が相対化された現代でガチにヒーローを描写するとこうなります、という徹底的な思考実験がされていて、最初から最後まで絶望しかなかったですね。

なぜ生きなければいけないのかという実存の問題、カニバリズム、食料自給率、組織論と、正義を語る上で議題がやや多めですが、アクションシーンがメチャクチャカッコいいので飽きません。

中学生以下の方と、心臓の弱い方にはあまりオススメできませんが、こういう万人ウケを捨てた尖った表現はやはり面白いですね。

お客さんもほぼ30代後半以降の男性のみで、ファミリーで観に行くと子供が泣くやつなので注意してください。

 


ということで、映画に登場した個別の議題に沿って語っていきたいと思います。

 


カニバリズム

テーマの一つに、カニバリズム(共喰い)問題があります。

人間は、アマゾン細胞を移植された人間を畜産物として食べていいのかという問題です。

シーズン1・2では、アマゾン細胞を移植された人間(アマゾン)は、いつかは人間を食糧として生きる、人間にとっての敵になる、という設定でしたが、劇場版では、アマゾン細胞を移植されても人間を襲うどころか、むしろ喜んで人間の食糧として、餌として自分を捧げる、従順な存在にコントロール可能になった存在として描かれます。

 


そこに対し、主人公は怒りを覚えるわけです。

命を積極的に捧げる存在なんて、生物として間違っている、と。

ここに関しては、いくらアマゾンとはいえ、もともと人間であった存在を、人間が食らうのは、タブーである、というカニバリズムの問題を孕んでいると思います。

人間は、人間以外の生命を喰らって生きています。

もちろんその中には、昨今のヴィーガン問題のように、植物はセーフ、動物はアウトという派閥があったりもしますが、いずれにせよ人間は食糧対象ではありません。

 


では、アマゾン細胞を移植された人間は、人間なのか?あるいは、人間ならざるもの(食糧対象)なのか?という問いがあります。

 


この問題は、よく出てくる豚の畜産の話に似ています。

日本人の小学生が、畜産用の豚を飼育している農場に何日か泊まり込み、共同生活をしていくうちに、豚に感情移入してしまい、最終日に畜産物として処理される様子を見て号泣する子供達。

ドキュメンタリー番組で、スタジオのモニターも号泣していました。

が、これを見たアメリカ人は、爆笑するのです。

なぜ人間に食べられるために生まれてきた動物が食糧になるのを見て泣くのか?クレイジーだと。お笑いだと。

ここに、日米のモノの見方の違いが表出しています。

アメリカ人は、最初に食糧対象か否かを定義したら、完全に割り切るのです。

対して日本人は、割り切れません。

これは、正義と悪の問題にも繋がります。

最初に正義と悪を定義したのであればそれを明確に分けるのがアメリカ、分けられないのが日本です。

だからこそ、ダークナイトの正義と悪の再定義を描写した映画は、日本人は面白いと思い、アメリカ人には衝撃的だったのです。

そのダークナイト問題を、仮面ライダー龍騎で描写した白倉伸一郎小林靖子のタッグが今作でも正義と悪の問題を少しズラしながらもガッツリとぶっ込んできているのが面白いです。

 


■生きることとは

上記に絡むことですが、主人公は、自分のために生きずに他人のために生きるなんて間違っている、と訴えます。

イスラム教のジハード批判のようにも聞こえますが、これは昨今のサービス残業問題やブラック企業問題も孕んでいるのだと思います。

組織のために、他人のために生きるのは、間違っている。

最終的にそうなることは素晴らしいが、まず、自分のために生きる。

自分の人生を全うに充実して生きられないのに他人に奉仕するなんて間違っていると。

エゴのようにも聞こえますが、むしろエゴになれ、そうしないと死ぬぞ、人生はサバイバルだ、生き残るためには自分を大事にできないとダメだ、というメッセージなのです。

そしてこれを訴えている主人公がアマゾンをなるべく殺したくないと考えているのも面白いです。

 


■組織論

本作では、生きるための処世術として、様々な態度が散見されます。

組織に忠実に命令を実行する者、左遷され復活を目指す者、組織から外れ一人で行動するもの。

それぞれが生き残りをかけて戦います。

そしてその全てが、どれが良い悪いではなく、フェアに相対的に描かれます。

組織に属すればいいのか、独立すれば良いのか、それ自体の考え方と行動が、生き残るための分岐点となります。

 


■圧倒的にカッコいいアクション

暗いシーンの連続ですが、それを引き裂くかのように、アクションシーンは圧倒的にカッコいいです。

衣装もそうですし、動きも洗練されています。

民放の仮面ライダーマーチャンダイジング型モデル、つまり玩具の販促を目的に番組制作をしているので、道具はカッコ良く描くのですが、仮面ライダーアマゾンズは、パッケージ型モデル、つまり映像自体を売るので、より一層カッコ良くなっています。

 


■テーマである、食うことについて

最後に、テーマについて語っておきたいと思います。

今作は、食うこと、がテーマですが、カニバリズムの問題以外にも、もう一段上の、侵食というものがテーマとなっていることがわかります。

1つは、ベタ的な意味において、人間が人間を喰らう存在としての侵食。

人間がアマゾンを喰らうだけでなく、主人公でさえも人間(アマゾン)を喰らってしまったこと、主人公の相方でありライバルである仁が人間(アマゾン)を殺してしまったこと。

主人公たちがお互いのタブーを犯したのです。

そしてメタ的な意味では、本作がAmazonプライム・ビデオというネット動画配信プラットフォームから、映画という媒体への侵食。

仮面ライダーシリーズは、民放から映画という流れはありましたが、ネットから映画というのは初めてで、その意味でも他媒体への侵食という意味もあると思います。

 


色々な意味において、生きるために、それぞれがそれぞれを侵食し、喰らうのです。

非常に面白かったです。

レディ・プレイヤー1の感想

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レディ・プレイヤー1の感想。
ネタバレしておりますが、悪しからず。

■あらすじ
2045年の退廃した世界で、オアシスという仮想現実と戯れるゲームに夢中になる少年の話。

■感想の前に
既にみなさんが書かれている通り、この映画は80年代サブカルチャー(アニメ・映画・ゲーム)のデータベース消費最高!の映画です。
ネットにはどこのどんなシーンにどのオマージュがあるのか細かく調べられているサイトもありますので、ミクロなデータベース検索は、そちらにお任せしたいと思います。

■感想
結論というかテーマから言うと、2点あると思います。
1つは、スピルバーグのAR(具体的にはポケモンGO)に対する脅威・焦り、もう1つはスピルバーグの後継者問題です。

1.AR(ポケモンGO)への脅威・焦り
本作は基本的に過去のサブカルチャーと戯れる快楽を全面的に描写していますが、最後に今までの楽しいシーンを興ざめする一言をブッ込んできます。
「現実だけが本当の『リアル』だ」。
最後だけなぜか急にアニメやゲームに理解のない戦後昭和のジジイの常套句のような台詞をねじ込んでいます。
今まで仮想現実=虚構と戯れていたのは何だったのか?と思わされます。
これは私見ですが、スピルバーグ監督がAR的なもの、具体的にはポケモンGOを脅威に感じているからだと思います。
ポケモンGOとは、グーグルから独立したナイアンティックのジョンハンケがイングレスの後釜として作ったゲームアプリです。
思想的には、「現実は素晴らしいが、この現実の素晴らしさに気付いていない人たちを啓蒙するために、キャラクター探しという回路を使って街を探索させ、普段歩いている街の素晴らしさを再認識させる、あるいはまだ来たことのない街へ出向かせ、歴史や文化に触れさせたい」という思いが込められています。
実際にはその思想はあまり理解されず、街の素晴らしさに気付かず単にポケモンを捕まえてさっさと帰る人が多いのも事実ですが、狙いとしてはそんな感じです。
時代としても、SNSが主流になっており、仮想現実から拡張現実への流れは明白です。
対し、本作は、ARではなく「VR(仮想現実)」を通じた世界の素晴らしさを啓蒙するためのツールが使われています。
現実ではなく、バーチャル・虚構そのものの素晴らしさや、それを通じた現実や人間との繋がりの素晴らしさです。
前者がビデオゲーム、後者がオンラインゲームですが、そういった快楽を提供するのがVRです。
その思想は、現実を変えられない、という前提で、現実の代替物、現実逃避として価値があるのだ、というバックボーンがあって生まれたものなので、現実は変えられるし素晴らしいのだ、というAR的思想が到来している現在では、確かにスピルバーグ監督としては仮想敵と捉え、もはや虚構に逃げ込んではダメなのだ、と言いたくなる気持ちもわかるのです。
でも、個人的には、AR的・現実の素晴らしさを体感する快楽と、VR的・仮想現実の素晴らしさを体感する快楽は、敵対しないと思います。
まさに今、ARアプリがあるのにVRブームが来ていますし、現実だけでは人間は生きられないから虚構があるのですし、SNSのような、人間同士の距離を近づけすぎてしまう、繋げ過ぎてしまうものが孕む危険性もあるのです。
AR的なものとVR的なものは共存しますし、使いようなので、スピルバーグ監督がいうほど恐れを感じる必要はないと思います。
スピルバーグ監督自身は、新しいテクノロジーに対し懐疑的態度を取る方なので、仕方ないのかもしれませんが。
そして、現実にこだわるもう1つの理由。
これは社会的なものではなく、スピルバーグ監督個人としての人生観によるものだと思います。それが2つ目の話に繋がります。

2.後継者問題
本作のもう1つのテーマは、後継者だと思います。
本作に出てくる「オアシス」というゲームの創始者ハリデーと、主人公のウェイド。
これはどちらとも、スピルバーグ監督自身の投影だと思います。
前者が今、後者が少年時代の彼です。
少年の頃、スピルバーグ監督自身がそうでしたが、両親に相手にされず、サブカルチャーという虚構に閉じこもり、その虚構の中で輝いていた。
作中も特に父親の不在を感じさせたり、年齢的には主人公の父親くらいの、ソレントという人物が最大の敵役になっていたりと、幼少期の頃の人間関係が映画にも反映されているように思えます。
ちなみにソレントは、会社に忠実な半面、自分の行為を会社の命令だからと言い訳する嫌な奴として描かれ、最後も主人公が手に入れた卵を破壊しようと銃を撃とうとする奴ですが、これは父親というか、自分が青春時代に映画監督として成功するまでの過程で「邪魔」をしてきた大人に対する負のイメージの比喩なのかなとも思いました。
で、現実だけが本当のリアルだというメッセージは、観客へのメッセージというより、自分自身へのメッセージなのかと思いました。
これまで虚構によって救われてきた自分が、あまり現実を大切にしてこなかったこともあり、具体的には人間関係でうまくいかないことがあった、だから虚構ばかりでなく現実も見よう、と言い聞かせているように思えました。
そしてそれは、青春期の彼のような存在、つまり後継者を欲しているからそう言い聞かせているのだと思いました。
作中のゲームをクリアする上で重要な鍵の探し方でも、「バックする」「良き相手を見つける」「(クリアせず)遊ぶ」というクリア方法も、彼の思想を表わしていると思います。
あえて世の中の逆を行く、いい人生の伴侶・仲間を得る、遊ぶ。まさにそのものですが。
ちなみに、ゲームウォーズの原作と違って主人公とヒロインがイケメン美女なのは、これがまさにスピルバーグ監督の自己の投影の物語とするなら、そうしたくなるのも当然というところだと思います。

ということで、全体としては虚構と戯れる快楽が全面に出ていて面白いです。

 

ビフォア・ミッドナイトの感想

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ビフォア・ミッドナイトを観ました。ネタバレしますので悪しからず。

 

■あらすじ

ビフォア・サンセットのその後を描いたもの。

 

■感想

ビフォア・サンセットの、男女二人の再会から9年後の世界を描いています。

ビフォア・サンライズから配役も実際そのまま本人たちで、18年間のリアルドキュメンタリーとなっています。

 


ビフォア・サンセットでいい感じで終わっていたので、続編は必要だったのか疑問です。

サンセットまでの2作で、だいたいドキュメンタリー映画としての結論は出ており、恋愛映画としての結論も、恋愛と結婚は違う、好き同士の二人が一緒になってもおそらく幸せにはなれないだろうという余韻を残して終わっています。

なのに実際は3作目が作られ、2人は結婚して子供もいて、うまくいかない様子を描いています。

描き方はリアルなのですが、ビフォアシリーズの流れからすると、歴史のifモノに近く、もし2人が結婚して子供がいたらこうなっていただろう、という妄想のような話に見えました。

 


物語としては2010年代の情報環境を前提とした恋愛が語られており、FacebookなどSNSがある前提での恋愛がビフォアシリーズ最初の95年当時とはまた違った形態の恋愛状況を生み出していることなどが描写されているので面白いです。

 


が、主人公たちのケンカと仲直りまでのやり取りで、少し少女漫画的過ぎるというか、男性からしたら違和感があるような描写でした。

というのも、わりと奥さんがガツガツ言いたい放題なのに対し、旦那さんは確かに振る舞いに落ち度があったのかもしれませんが、かなり誠実で寛容な態度で対応しているので、現実的にこんなに神経を逆撫でされるような発言をされているのに優しく対応できるのかは疑問でした。

リベラルな女性が妄想する理想的な男性が描かれており、現実的ではないと思いました。

 


ただ、批評的には、興味深かったです。

このビフォアシリーズを通して、映画と観客の関係性と、リベラルの実態が浮き彫りになっていくのがわかったからです。

 


シリーズ最初は男女がうまくいき、段々うまくいかなくなる。これは、映画が勢いがあり観客に愛されていた時期から、そうでなくなる今の映画が置かれる環境を描いていて、ラ・ラ・ランドのメッセージに近いものを感じましたし、今起きている、リベラルのある種のエリート意識がトランプやブレグジットを生み、大衆の本音を爆発させている状況が、最後の本作の描写と重なるのです。

 


なので、一見駄作で不要かと思った本作は、今の映画と観客との状況や、リベラルの空転を浮き彫りにしているものとして見立てることができるのが皮肉にも面白かったです。

 

 

ビフォア・サンセットの感想

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ビフォア・サンセットを観ました。

ネタバレしますので悪しからず。

 

■あらすじ

ビフォア・サンライズのその後を描いたもの。

 

■感想

ビフォア・サンライズの、男女二人の再会の約束をしてから9年後の世界を描いていますが、配役も実際そのまま本人を使っているので、前作のリアルドキュメンタリーを撮るというコンセプトが続いています。

序盤、主人公が自叙伝と称し、前作の体験を小説化してヒットしているという設定です。

「人間は自分のフィルターを通して世界を見る」「人生は瞬間の積み重ね」「他人にとってはドラマ性がない平凡な人生でも自分の物語は感動に満ちている」と語るあたり、映画=他人の物語を描写するもの、という前提を捨て、自分の物語として描写できたら面白いのではないか、という意欲を感じます。

前作から二人は様々なテーマについて語り合っていましたが、今回も道を歩きながら、カフェでお茶をしながら、政治、環境問題、宗教、欲望の問題について語ります。

「人間の性格は変わらない」「人間は永遠には生きられない」「何が楽しくてなにが重要か、毎日が最後」など、前作に続き哲学めいたセリフが飛び交います。

一言でいうと、「過去は変えられないから今を生きろ」なのですが、これも、結論というよりは二人の会話のやりとりそのものを楽しむ、プロセスが重要です。

「結論を言ったらオジャン」というセリフがありますが、それも本作のテーマです。

そして、知的な会話劇から感じる、分かり合えるが2人は絶対にうまくいかないという運命的な匂いを醸し出すあたりも、上手だなと思います。

 

基本的には前作を楽しめた人は本作も楽しめるのではないでしょうか。

 

ビフォア・サンライズの感想

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ビフォア・サンライズを観ました。

ネタバレしますので悪しからず。

 

■あらすじ

列車の中で偶然出会った男女が恋に落ちていく話。

 

■感想

物語序盤で男性が女性にこんなことを話します。

「今は誰でも安い製作費で番組が作れるようになった。自分は24時間のリアルタイム・ドキュメントを作りたい。」

まさにこの映画のコンセプトそのものを表現しています。

映画とは本来、監督が意図したものしか映らない極めて作家性の強い媒体です。

でも本作は、監督の演出でガチガチにコントロールするのではなく、演者の自然な演技を引き出すことをテーマにし、作りこんだ映画ではなくドキュメンタリー風の映画になっています。

そのため、カット数も極力減らし、カメラを長回しし、ナチュラルな演技が魅力的に見えるよう工夫して撮影されています。

実際に、男女が引かれていく様子が、演技演技しておらず、一挙一動の機微や繊細な心の動きを楽しめるようになっています。

95年放映の映画ということで、日本では当時進め電波少年が流行したり、ウインドウズ95のリリースがされたりして、まさにドキュメントとしてのメディアの魅力を引き出す機運があったような時代でした。

 

二人がウィーンに到着し、レコード屋で女性がかける曲の歌詞がいいです。

「来て、そっと優しく触れてほしい」「私は急いでないわ、だから逃げていかないで」「あなたは内気な人」「でも今度こそきっとうまくいく」。

男性に向けて、好意を表明しているわけです。でも序盤は男が初々しいため、なかなか関係が進展せず、このもどかしさも面白いです。

 

物語が進む中で、男女の知的で高度な会話が繰り広げられます。

恋愛観や生物学、フェミニズム(自立した女性について)、夫婦論。

デートなのですが、学生のディスカッションに毛が生えたようなレベルの白熱した議論が展開されます。

人によっては疲れるかもしれませんが、この会話の中身も、なかなか90年代的で面白いです。

結局は、女子の言い分は「男子はヤリたいだけ」、対し男子は「そんなことない」なのですが、ここは結論よりも会話のプロセスが面白いです。

 

■結局二人はうまくいく可能性があったのか?

物語としては最後、二人は一旦離れて再会を誓うわけですが、もしこのまま一緒にいたら、二人は結ばれていたのでしょうか?

これは、結ばれていないですね。

冒頭で新聞を読む夫とその妻の夫婦喧嘩から始まるわけですが、この夫婦は、主人公二人の将来の自画像でもあるわけです。

また、会話の中で、男子は「何かを成し遂げて死にたい、いい夫婦関係を築くより大切」と語り、女子は「自立した女性」への憧れがあります。

もちろん、自立した女性=独身、というわけではありませんが、90年代の空気として、そんな社会的圧力みたいな見えない思想があったようにも思えます。

そして決定的なのが、女子の、「分かり合えなくても分かろうとすることが大事」「どんなカップルも数年一緒にいると互いの反応が予測できるから憎しみ合ったり飽きてくるけど、私は相手を知れば知るほどその人が好きになる、すべて知るのが本当の愛」と言っていますが、このような、言語化されるイデオロギー的なものとは、実現されないというか、実現できないからこそ言葉にして自分に言い聞かせているように見えるのです。

変な話ですが、人間は、近づきすぎると、憎しみ合ってしまうものなんですね。

ほどほどに距離を取ったり、何かを媒介することで親密さを維持できる。

出会った時の二人も、最初は他人だったからこそ、親や友達にも言えない悩みを打ち明けられましたし、仲良くなって本音を言いたい時も、直接ではなく、電話で他人のふりをして話すという演技性(媒介)があったからこそ、本音を言えたのです。

 

さらに、二人が自然と惹かれるシーン、物語が進展していくシーンは、必ずといっていいほど、「言葉」がでてきません。

男性が、「わかるだろ?」の一言で、無言でお互い分かり合って関係性が進展します。

大事なのは、言葉ではなく、関係性なのだ、ということです。

逆に言えば、言葉とは、誰かと議論する、戦うために必要であって、分かり合うための手段となり得ていないような描写に感じました。

 

■テクノロジーが進化した現在だったらどうなっているか?

物語とは関係ないのですが、もしスマホSNSがあったら、この関係性はどうなっていたでしょうかね?

そもそものこの映画自体、おそらく映画という媒体ではなく、Youtubeでも流せますし(ドキュメンタリーなので)、おそらくFacebookなどでいくらでも検索して出会うことができていたはずです。

なので、現代であったら、この物語は成立しなかったわけです。

そういう意味でも、この95年という時代だからこそ描けた映画だともいえます。

 

面白かったので、一度、見てみてはいかがでしょうか。

 

セッションの感想

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セッションの感想。

ネタバレ含みます。

 

■あらすじ

ジャズ・ドラマーに憧れる主人公ニーマンと、鬼教師フレッチャーとの、音楽を介した壮絶なバトル。

 

■感想
冒頭主人公が映画館で親父とポップコーンを食べながら見る映画が『男の争い』なので、これから男同士の激しい闘いが始まるのだとわかるニクい演出から始まり、スパルタ教育の壮絶さが展開されます。

この映画は色んな視点で示唆がありますが、「才能と狂気」「指導者と生徒」、そして、「デミアン・チャゼル監督」の視点で語りたいと思います。

ちなみに、テーマ的には「シゴいてでも才能は開花させるべきか?」のようにも見えますが、それは問題設定が間違っているので、そこも言及したいと思います。

 

■才能と狂気

僕の持論として、「才能がある人にはどんなに他人がその才能を引き延ばそうとしたり逆に邪魔しようとしても関与できない、才能は勝手に開花していく」という考えがあります。

本作は、才能があると自負する主人公を、鬼教師が伸ばそう(としながら足を引っ張る)のですが、最初はそれについていくものの、最後は鬼教師を無視する形で才能の片鱗を見せることになります。

つまり才能とは、他者から強制的にやれと言われたり、地位や名誉、金など、何かの目的達成のための手段としてそれをしている人ではなく、「それが好きだから、好きすぎるから、気付いたらそれを無意識にしている、それをしないと(精神的に)死んでしまう」という、半ば偏愛的な狂気と表裏一体なんですね。

そういう意味で、最初はドラム好きから出発したのに、途中から家族を見返すため、有名になるためにドラマーとして成功しようとして、手段としてドラムを叩くようになった主人公がシナリオ的には挫折と描写され、最後はそのしがらみから自由になり、没頭感やハマる感覚が天から舞い降りてきて神演奏する主人公の輝きは、再び才能を取り戻したという片鱗を見せて終わるのが綺麗な流れでした。

好きなものは、途中で鬼シゴキに遭おうが交通事故に遭おうが途中では止められないものなのですね。

 

■指導者と生徒

本作として評価が分かれる「スパルタ教育・パワハラ」的なテーマですが、これは技術的、キャラクター的、動機的な視点で語りたいと思います。

 

技術的には落合陽一の授業スタイルが一番合理的だと思います。

https://togetter.com/li/1202649

彼の授業には仏コース、人間コース、鬼コースというものがあり、それぞれ、ただ単位が欲しい人向け、その分野に詳しくなりたい人向け、その分野に進みたい人向け、という風に、自分でコースを選べます。

最後のコースには、「人間性を捧げろ!」とあるので、まさに知的なシゴキがありそうですが、その分野に進みたいと自己申告するだけの意志と熱意があるわけですし、もしダメでも仏コースがあるわけです。

まずは、選べる、ということが重要です。

 

キャラクター視点で語ると、本作の鬼教師は、明らかに指導者としては適性がありません。

最後まで見るとわかりますが、指導者は主人公の才能を伸ばそうと接しているつもりで、才能を潰しにかかっています。

おそらく、彼への嫉妬や、自身が演奏家として大成しなかった恨みをぶつけているのでしょう。

指導者としてはアウトなので、さっさと距離を取るべきです。

問題は、生徒です。

生徒に才能がない場合は鬼教師とさっさと距離を取りましょう。

ただ、才能がある場合、彼から学べる圧倒的努力の量があるので、そこだけでは学ぶ価値があるかもしれません。が、単に彼を見返したいという復讐だけの理由で音楽を続けると、目的と手段が逆転してしまうので注意だと思います。

 

動機的視点、つまりモチベーションで考えると、わりと興味深いのが、最近の五輪選手や最近大活躍の大谷翔平選手です。

彼らは活躍の理由として、努力を挙げるより、練習を楽しめていること、本番の試合も楽しめたかどうかを基準に語ることが多いように思えます。
才能の有無は前提ですが、それをもとに、自分がいかに楽しめるか、楽しめるよう練習をプログラムできるか、が大事なのだと思います。

それは、続ける力と言い換えることもできます。

別の例ですが、ドラゴンボールのセル編で悟空が悟飯と修行する際、単に筋肉量をアップさせるだけではダメで、戦闘力の底上げには、毎日の負荷に慣れることの大切さを説きます。

そしてセルとの戦いまでに、毎日24時間寝るときも含め、スーパーサイヤ人の状態でい続けることを提案します。

同じことを、イチローも言っています。

トレーニングは、自分の体のコントロールできる領域を拡大するために行うわけであって、いたずらに筋肉力を増やしても無駄だと。むしろ弊害だと。

この哲学に共通するのは、半ば強制的にギアを上げて練習することの大切さもある一方で、日々の積み重ね、続けることの大切さです。

シゴキが短期的なカンフル剤として機能することはあっても、長期的には有効ではないですし、そもそもシゴキ続けないと活躍できないような人は、最初から才能がなく、いつか燃え尽きるのでやめた方がいいです。

 

■チャゼル監督の視点

主人公が音楽の才能に惹かれ、挫折していく、その過程で家族や恋人と距離を取る、その生き方は、監督と重なるのだと思います。

音楽への憧れと挫折は事実として語られていますし、本作での家族との会話で、「金があって長生きして忘れられるより金がなくて(短命でも)出世したい」というのは監督の本音でしょうし、親父と映画鑑賞している時の主人公の目が死んでいるのもそれを表わしていると思いました。

また、恋人との会話で、「故郷が恋しいのかも」と語る彼女を振るのは、故郷への恋しさと決別しようとしている主人公を表わしています。

 

同監督の『ラ・ラ・ランド』との比較も面白いです。

ラ・ラ・ランドも、終盤でジャズバーで相手と出逢い直すのですが、一旦徹底的に距離を縮めた相手と距離を取ったあと再会し、もう一度他者として出逢うことで、違った刺激をお互い与え合うことができる、というのが面白いです。

おそらく監督の価値観なのでしょう。

 

■最後に

この映画、視点は色々ありますが、結局どうなのか?

個人的には、最後の主人公の愛憎渦巻く笑顔が全てを物語っていると思います。

シゴキを受けて挫折しそうになったこともあった、でも今自分は再び才能の片鱗を見せることができた、どうだ!というドヤ顔にも似た笑顔。

それは、昔自分を馬鹿にした全ての人に、今自分が映画監督として大成しているのだ、というドヤ顔でもあるような気がしました。

ただし、それは、相手に復讐できた!というやり返しの音楽としては、素晴らしかったんですけど、楽しむための音楽になっていたのかは疑問でした。

主人公は、追い込まれた状態で覚醒してすごい音楽は奏でられますが、観客を感動させる音楽、いや、そもそも自分が楽しいと思える音楽を演奏できているのか?がわかりませんでした。

そして皮肉にも、ジャズバーで音楽教師を退任した後の鬼教師のピアノが、一番穏やかで、優しく楽しそうに奏でられた音楽で、私はこちらの方がよかったです。

才能はあってもなくても人を苦しめるし、純粋に楽しいからやる、という状態を維持することがこんなに大変なのか、と考えさせられました。

ああ、才能が欲しい。才能があれば、たまにはシゴかれたい。